ブルーパレット

自分は子供の頃好き放題にしていた

みている世界は我が物顔で歩けた

家族や親族の精神的・身体的な支えがあったから。

 

善悪の判断をせず、好き放題にしていた

社会的に正しくないことも、倫理的に正しくないことも

今思えば根本に倫理観が備わっているから

なんでもやった

 

それは倫理観を備えた大人たちが見守ってくれていたからだ。

全く同じ話

 

悪いことを悪いと判断するのには時間が必要だった

そこに空に蹴飛ばしたくなるような小石が転がっていれば

誰の家に吹っ飛ぼうが構わず蹴っ飛ばしたし

生理現象には素直に対応していた

殴ってみたいと思ったら殴るし

助けたいと思ったら助ける

そんなふうにワガママに、やりたいをやり通した

 

大人に向かうにつれ、若い頃にやりたいことをやれずに生きている青年期の少年少女と交わるような機会が増えた

彼らは16にしてタバコを吸って、お酒を飲んで

悪いと言われることを、自分とは違う意図でやっている気がしていた

 

自分には、酒もタバコも、別に年齢がどうとかではなく、

やってみても面白くないからやらないだけで

それよりも社会犯罪的な行動の方が面白いのでたくさんやった

 

彼らの倫理観はおそらく、私のそれとは異なるのだと思う

あるいは、彼らは私の周りにいた人たちのような倫理観とは違った大人たちに囲まれて、あるいは囲まれることすらなく育った、のではないかと今は思う

 

彼らの言う、する、やる、行っている、悪いこと、と言うのは

とどのつまり

若い頃に抑えていた衝動を、爆発させているだけのようだった。

私には、抑えると言う観念すらなかったため、定常的に衝動的に生きていたので

彼らの衝動が理解し得なかった。

 

ここには書けないような悪いことをたくさんやったし

どんなに大切な人だろうとそれは流石に許してくれないのでは、

そんな悪事を本当に働きまくっている

 

なのに今は良い大学を出て、倫理観マシマシに人並み以上に生活を送っているふりをしたりして、そこに対する疑問はあれど、閑話休題

 

何を言いたいかというと

私には彼らの言うアートというものが、

全くもってアートではない。

社会制約・環境によって縛り付けられた人間に元来備わっているリビドー・欲望といった、知的好奇心よりも低次における人間の扁桃体的な部分、情動的な観念を、

子供の頃に社会のルールやらによって押さえつけられたものを、

今一度若いうちに体験することで、「善悪の彼岸を把握したいだけ」だと思う。

 

それが、間違いの多い。

中には、悪いことをする=カッコいい、が真っ当に思い、

中途半端な柄の悪い人間を演じ続け、溺れ死んでいく人もいる、と妄想するが、実際そういう人と関わりを持たないので、実在するかわからないな。

書いていて感じるのは、特に家庭環境の問題、というか辛さ、を抱えて生きてきた人たちにとっては、

私のような自由闊達天衣無縫な生き方とは恐らく違った何かがあって

束縛や制約といった世界を幼少期に過ごして、

だから友達をたくさん作って居場所を欲したのだろう

だから異性と交流を深めて、自分の価値を需給して知的好奇心を満たしたのだろう

わからないことを、その中でも前頭葉ではなく扁桃体で感じる、"知りたい"と真に思う感情を、憧れと言う。

憧れを、信念を、大切にしたいがために自分の出来る範囲の最大限のリスクを取る。

 

そのような生き方が、私にはどうも彼岸の話に聞こえてならなかった。

それは、わかってもらえなくても結構、と切り離されるような辛さであるのだろうし、私には到底経験したことがないので理解はできないし。

ただ、自分が生きてきた世界は、こんなに暖かかったよ、と相手の霜焼けを温めてあげられる男になれたら、と思った。

 

それは異性でも同性でも同じくで、アプローチがちょっと違っているだけである。

異性なら体を介して感情を交わして。

同性なら建設的な批判と議論という名の会話を通じて。

 

それでも、自分には"救えない"ものがたくさんあるのだと知るし

自分だって16歳の頃には地獄のようなコンプレックスに苛まれている

 

彼らにはあって、僕にはないものが目に見えた。

彼らにはあった地獄が僕にはなくて、だからこそ僕にはなかった天国を彼らは知っていて。

そんなふうに実は、目指している最終地点に変わりはなくても、なんだか全くの逆アプローチっていう風に思えてしまう。

 

だから、私は人の役に立つ、とか烏滸がましいけど、

好きに生きることが自分に出来ること。

彼らもまた恐らくそうで、ただその生き方には違和感もあれど、

もしかすると大人になるにつれて認められるようになったりとか、、

今はそうは思わないけど

努力という意味では彼らと同じ道程にいるわけで、

いつかまた会えたら、なんて思ったり。

 

芸術っていうのは、確かに感性を磨くことで表現を通じて表すものだけども

有体に行ってしまうとデザインだし、技術だし、テクニックがある

そこはもはや、ビルゲイツ然り過去の偉人たちが仰られている通りで

人生は不平等であるから、何もスタート地点やゴールライン、今いる現在地について

あれこれ言っても仕方ない。

皆それなりの理由と現在地にいる。

ただまあ、出来ることなら私はやれるだけやって死にたいと思うし

そうでないと生きていけないから。

明日からまた、生きるのである。