人には生まれもってポテンシャル・スペック、所謂遺伝子レベルでの優劣の差分が決まってくる。
少なくともこれまでの人類史で最も差別的な要素が遺伝子じゃないだろうか。
背が高ければ、運動能力が高ければ、足が長ければ、
人は自分に適したものを本能的に選ぶ生き物で、
生まれつき体が小さくて弱々しければ、そのカードを元にどんな異性を選ぶか、
というゲームが始まるし
生まれつき体が大きくた頭が良くて顔も良いとすれば、そのカードを元にきっと前者の数倍の経験値を得られることだろう。
だからつまり現在の人間同士の間にある差分というのは歴史的に比例的に広がっているということでもあると思う。
そんなわけで私は、特に、スペックが非常に高かった訳でもなければ
どちらかというと悪くはないけれど、地方の少ないカードの中で満足できる、くらいの人種だった訳。
この話はもはや、何十年もしてきたから、もう嫌なんだけど
私はその前提に立って、自分を生かし続けてきた。
つまり、上記前提を小学3年生くらいの時から自覚するようになって、
それ以来、葛藤は無論長かったものの、結局今にいたるまで、特に青年期から壮年期まで、努力しまくった。
ここでいう努力とは、別に望んでもいなかったものだ。
私はしなくて良いことはしたくないし、したいことだけやれてればよい。
皆そうだろう?だから、つまり、努力なんていうものは基本的に本能に逆らう、環境への対抗手段なのだ。
努力する人、というのは、何かしら明らかに劣等意識が強くあり、
それを打ち消すために努力をする人のことを指す
私が嫌いなのは
生まれもって強いカードを持った人がそのことを無自覚に(別に自覚したから何かが変わる訳ではないのだが。変に卑屈になられても、まあ個人的には嬉しいがね。平均的に努力が評価されるので。非常に純粋に平等な社会だと思う。それは)
強そうに生きてる人たち。恨んだって妬んだってしょうがないのはわかっていたって
どうしても自分には大富豪で言うところのJokerと2がなかったから、与えられたj,q,kでやつらをコテンパンに、
自分だって勝てるのだ、と言うことを証明して見せようと、一種の努力を行った。
結果どうだろう?
体を壊してしまった。
だし、生まれもった強い人間にはこの文章の意味が理解に困しむのだ。それも知っている。強い人間は"強い自分"のことしか考えないから他人の気持ちなんてわからないのだ。奪えるだけ奪えればハッピー、多少の努力があったとして、それは私にとったら凄いエネルギー量とバランスだけど、それさえもなんか生まれもったカードの差じゃん、ってわかっている。その上で闘ってきた。えらそうに、自分のそんな気持ちを共感してくれもせずに、強そうにのさばる皆が、今だって嫌い。
別にこれは、どう言うレッテルを貼られたとか、そう言う話じゃなくて
個人の感覚としてそうなんだよ。誰にもわかってもらえなくたってかまわなくって
自分が偉いと感じる感性
内向性・外向性
直観・感覚
思考・感情
判断と知覚
このバランスは変わらない。
でもってして自分のこんな性格が、卑屈だね、なんて思いもしなければ
ただ正しいことを述べただけだとすら思っている訳で、
10年来卑屈だねと、皮肉なように思われていたこの感性も
大人になった(死ぬほどの努力をしたから)から言えるんだ、卑屈じゃないんだと。
私にとっては努力こそが生きがいで、それは必要性に駆られただけの、
"私が本当にやりたかったことじゃない"ことくらい10才になる頃には自覚していた。
最初から強いカードを引いている人は、そもそもこういった感性すら、3,4才とか、もはや言語化しなくても知覚できているからわざわざ悩まない方が多い。
だから最初から会話なんか成立しなくてかまわないのだ。
私は好きな人に好きと言う。彼や彼女が自分より優れたり劣ったりしていたとしても、そのことに関して、特に優れている場合、何らかの期待を持つことは、誤りなんだ。
劣った人に対して自分が失礼に振る舞うのも(こういった発言自体舐めているし)
本当はつまり私は心の優しい人間になりたい
誰かのために生き、誰かを幸せにする社会を
全てが平等なら、全てが平等に評価されて、褒められて、叱られて
間違ったことをしなくなるんだ。そう言う世の中がほしい。
その世界には、ただ幸福だけあって、わざわざくだらない性病をくだらない人間から貰うようなくだらない出来事で大切にしてくれる人をくだらない扱いにして本人は悪いと思ったつもりでも本人には伝わっていないと言うような、どうしようもない事実関係について時間を浪費するようなくだらない出来事も存在しなくなる。
SNSに自分の悪口が描かれることもなくなり、自分のオナニーだけをふりまく人生も否定される。誰かのために生きることが生物としてのあるべき姿として、自分だけのやりたいことをやる人生が虚しくなる、そう言う。
そう言う世界に私は生きたい。だから、平等とか、そう言う言葉があなたにとって嫌いということも存分に理解されます。くっだらねえわ。死ね
結局のところ私はこの自分の判断力というものを一番頼りにすることで生き残れた。
自分が好きな人は感覚で生き残れる本能的優秀さを持った生き物だ。
それは自分が感覚で生き残りたかったけれども、生き残れなかったという劣等意識、所謂コンプレックスからきている。
それだってどうしようもないのだ。相手にだって相手なりの悩みがあって、私にだって私なりの悩みがある。伝わる伝わらないは、もはやその人次第であるから。
理解する、されない、話は
理解したい、したくない、つまりはやりたい・ありたい姿に近い、近くないの差でしかないのであって、
本来才能の差なんて気にし立って仕方なくて、自分にないものをねだるのが、本来的に間違ったこととは言えない気がしています。自分に自信を持つこと、持たなくたっていいこと、それら全てを踏まえて。私は自信を持つべきだと思う。
それは決して何をやったかとかチンケなくっだらねえ話じゃねえ。
そんなゴミみたいな運要素、頼ってるのはゴミだ。自分なりの行動を持ってして真面目に取り組めてればいい。休め