誰もわからないから
私には全て見えていた
12歳になるまでとにかく生きるということに興味がなかったから(死ぬことへの恐怖は人一倍あったが)
死んで見るような恐怖体験を恐怖だと感じずに、周りを脅かすようなことをしてきた。
別にナイフで刺し殺しても悪いとは未だに思えていないし、誰かを殺すことが正義だと思う。
だから、とにもかくにも、苦しみを覚えずに生きてきた人間の、苦しみに打ち勝てない姿私には理解不能だ。
無論、私には友人が皆無だし、ましては信頼関係なんてもっとない。私を信頼できる人間は私くらいしかいなくて良いのだ。皆同様である。
慎重さについて、私はこう語る
死をギリギリまで臨死体験し、それによって意味を理解していくだけ。
一回きりの性行為でも、相手が援助交際をしていると知れば、もう交際は終わりだ。
それは行動意思決定論のようで
性的欲求をこれから3年間満たし続けるための努力に対して、自分を殺すという恐怖心が勝ったというわけだ。
無論、恐怖を大いに恐すぎているのが問題なのだ。
なぜ、こんなにも恐ているのか。きっと恐方を知らないのだ。怪我の仕方を知らずに生きている。
だから、今も怪我をすることを恐ている。
忸怩たる思いを馳せて毎日を歩む。
それって悪い事だ。だから、毎日苦しみを探す。
苦しかったら後が楽だから。
いつだって劣等感がそこからやってくる。
失敗をするにつれて理解してきた人の方が、少なくともこれくらいの人生においては尊敬されるから。
それを武器に自分を脅かして自己満足に浸れるのも勝手だが、まあ私にとっては私自身の問題をどう解決していくかだけであって、その手助けは不要だ。というか、諦めた。もう
自分の手で切り開いて、信じないだけで生きる。
それが慎重さを少しずつ改訂して行って、真の自分に近づく一歩だと感じているから。
人の意思を折るのはとても簡単だ、とだけいう。なぜなら、そこに一切の当人の責任が発生しないから。
そうやってインターネットが発達していく。無論、雑魚が増えていく。稚魚に興味はないのです。
皆、シンギュラリティか何かに巻き込まれて死んでくださいな。
おやすみなさいませ。私は生きています。し、とても快活に楽しんでいる。悲しみも。