「自分変なんで」

とある本を読んでいたら

若い頃はこの言葉に救われ

年をとるにつれ使わなくなったのを思い出した

 

自分変なんで

と自己紹介するのは

なんだか変でありたいのか

周りに合わせられない自分のことを「変」と事前に周知させることで

リスクヘッジを行っているような

 

若かった頃、自分で自分を卑下するこのスタイルさえも持ち合わせなかった頃

SNSスマホが普及する少し前の話だけど

その頃はまだ、世間は今ほど「変」に対してそれほど寛容じゃなかった

 

おかしなやつ=近寄り難いやつ

みたいな風潮にまんまと自分も乗せられるうちに

しんどさを感じたのを覚えている

 

変の具体的内容に関しては今ここで記さないが

高校に入って一年たったあたりで

ようやくこの

変という武器すら不要になる時代や

周囲も他人の多様性に慣れている様子だったので

少し自分は生きやすくなった

 

大学に入ると

再びこの「変」に付き纏われた

あまりにも噛み合わない周囲の環境と

折り合いをつけるために

名刺交換のように自分を「変」とレッテル貼りしたような気もする

 

そういえば高校2年の終わり頃に

慶應文学部卒の若い国語の女教師との廊下での会話で

先生には自分がどう見えてるんですか、と笑いながら話した時

高校生を謳歌している爽やかな青年

と言ってもらったのを思い出した

自己肯定感は低かったので

嬉しさと同じように

苦虫を殺すような

唾が喉を通らないような

ひやっとしたものを感じたのも思い出した

 

自分、変なんで

 

実際、高校生の頃の自分は変であった

というか、倫理観がやはり欠如していたと思う

 

やりたいことはやっていい

それが法に触れようが関係ない

人殺してないんだから良いでしょ?

と言わんばかりに

自然に

ごく普通に

彼女のように

 

それは一種の多様性であり個性である

社会には適応させる必要がある

 

閑話休題

 

「自分変なんで」

これを言わなくなったのは

25歳以降が顕著ではなかろうか

 

それはきっと

自分はこうであるという自負と

周りの人に恵まれたからだと思う

 

特に尊敬する人生の先輩に

「俺は普通って言葉が昔から嫌いなんだよね。普通なんてないじゃん」

と言われた時のことは凄く鮮明だ

 

それは自分が

「葉っぱだって一枚ずつ全く違うのに、なんで「葉っぱ」と記号で画一化するのか。世界は細かいのに」

といった話をした後だった

 

その文脈で、その語気も含めて

昔から本当に嫌悪していたのだろうと

それに早くから気づける頭の良さと感性の両輪の凄さに感服した

 

 

まとめ

わたしは、周りに目を配らせ

周りとはだいぶかけはなれた感性を持つ自分を育てるのに本当に苦労したし

それは彼女によって完成させられたものだし

その上で今自分は

生きる権利を

社会適応を

自分の力なんかではなく

大切な人たちの歴史によって築き上げられたのだということ

 

 

本当は美大にだって行きたかったけど

感性のままに生きたら自分は社会的にも、下手をすると生物としても死んでしまう

と17の頃から直感で理解していたことを

 

 

自己表現は最大の自己愛であり

自決と他者との決別だと思う

 

素敵

 

自分変なんで

こんな生き方しか出来ません

でも、それを愛してくれるなら

私もあなたを愛している