深夜の小言

人生は暇つぶし、もうちょっといい表現があれば尚良いと思うが

実際生命の不思議で、生存することを肯定して全ての仕組みが構成されている

何をするにも生きる上で、生きていくため、生存のための戦略を持っている

ありとあらゆる行動が、種の生存へと紐付いて

そんな中でここ数十年〜百数年は、自由意志が世界中で謳われるようになり

自分も例に違わず種より個への意識改変を余儀なく

話を戻そう

生きるを因数分解すると物質すなわち量子・粒子(粒子と波動)が最小単位の変数だと思うので、粒子レベルで生きるとは何かを考察すると(量子論的なものになるが)

まず人は波動と粒子(原子、電子、陽子、中性子とか)の要素を持っている

波や粒は生きる、なんて言語を持ち合わせていない

時系列的に元を辿ると宇宙が生まれる前の世界は、量子が無数に存在していて、それらが結合と離反を繰り返していたと、現代的には答えが一般的とされている。怖い話だ

ここまで因数分解したうえで、その粒子からなる人に、生きる、なんて大それたものを有しているとそもそも言えるのか?と個人的には疑問が湧く

だって量子は存在したいとかしたくないとかそういう次元にいないし。

すなわち生きるも死ぬも人間の尺度で図られただけのもので、なぜなら自分が生まれる前も後も物質は存在し続けていて、たまたまそれらを遺伝子で集結させ、発達した脳によって自他を認識してようやく人は生きるとか死ぬを定義するのだから。

まずここまで端的に表すと

生きるとか死ぬなんて人の遺伝的かつ脳的な尺度での概念でしかない。この世にとってとても意味のある話ではない。全くもって無意味といっても良い。なぜなら物質は生きる死ぬの次元にないから。

 

ここまで表層的な考察に時間を費やして、ようやく自分が何を言いたかったのかを思うと

要するに人間は今を生きようとする(人間らしくあろうとする)特性上、それが満たされなかったら人は生き死にに疑問を持つということだ。

今を生きるとは何か、脳科学的にまとめるなら扁桃体などの中枢神経系、感情シナプスが活性化しており、他方で前頭葉が相対的に非活性化な状態であると思う。

生存を達成するためにまず感情が生まれ、感情による即時的判断で人は動物時代を生き延びてきた。そしてダーウィンの進化論的に言う進化でいうなら、たまたま我々の先祖ホモ・サピエンスが、他の猿より脳の発達が強かった(それも生存戦略)ため、前頭葉が発達した。

進化とはすなわち、感情を経由した生存を脅かすものへの認知への対処ではないだろうか。

つまり、嫌なものに嫌と言うだけじゃ意味ないから、なんとかしようと知恵を捻り出したのが、特に我々の種族の進化と呼べそうだ。

 

話をどこかに戻すと生きていてつまらない、というのは要するに、人間として生きていくうえで、あまり生存戦略がうまく行っていないのではないのかと思った。

例えば種の保存がうまくいかないとか、飯が食えないとか、眠れないとか。

人として、実は一番当たり前とされている欲求が満たされていないと、人は生きていけないのかもしれない。

そしてそれを、現代先進国でうまくやれない一般平民というのは恐らく、脳の前頭葉に依存しすぎているから、または単純に行動範囲が狭すぎるから、などが理由なんだと思う(ここは掘り下げない)