心に従うことの大切さについて

変わり者、と言われるとなんだか観察を諦めているような

プロトコル合ってないと思われるだけ

別に変わっていたいのは本心から、変わらないとつまらないと好奇心や脳の命令に従う本能に従順なだけなんだよな。

別にまともな人の、まともになりたいと思わないのと同じ

変わり者の変わり者になりたくないのはいまいちピンときてくれない?

変わり者なんだから変わらないといられない

まともな人がどんなに狂人を演じてもきっと最終的な判断はまとも

わたしには判断がまともでなく

まともな判断は身体が拒むのだ

論理が判断を下す時、正論と感情がアンビバレンスになって

正しいと思うのと倫理的に背いている恥ずかしさをまともなのかよく感じて

まあ、それはつまりわたしにはわからない、といった好奇心からくるものに人は正論を容赦せず感情的に優先度を上げる

むしろ好奇心のわかないものは正論を振りかざすとある程度適当にいなせてしまって無関心を貫けてしまう

 

実家にいるとよく寂しさを覚える

これは多分誰からも絡んでもらえない

という訳ではなくてむしろその逆で絡まれるのが寂しい

当たり前に満たされる感情というのはあまりに勿体ない

お腹の空いた時に食べるパンと腹一杯で食べるパンの幸せみたいだ

 

感情に身を任せるのもまあありっちゃあり

それで身を滅ぼすのも悪くない

なぜなら感情が何より個人にとって大切である

 

そしてその感情が破られた時、否定された時、分かって欲しいが伝わらない時、などなどに

悲しさを感じていく

 

基本的にはなので、感情に身を任せて良い

というのが結論と言いたいが

それだとあまりに無防備なので

 

理性やら社会やら

その理解は論理でも感情でも何でも良いが

他人との距離を図るためのルールを弁えないとはならない

それがないから捕まる

法がある

 

法に触れなければ何をしてもいい

というが、別に法に触れても良い

ただ責任があるよ、ということ

 

無論この辺は、無責任な育てられ方をされればそれだけでディスアドバンテージになり過ぎ

平等からはかけ離れていると僕の論理の怒り

 

努力して努力して

ようやく掴み取ったこの感情は誰にも理解し得ないし

一方で寂しいだけだと何も変わらないこと

身体で以ってしか寂しさの紛れなさのこと

大切に、人に迷惑もかけて身につけた社会論理を

馬鹿にするように接してくれる人はさいなら。

わたしはわたしを大切にしてくれる人を大切にしか出来ないし

それは昔からいつもそう。

傲慢であれ欲に塗れたとて、それでも愛し愛されない程度の関係ならそれはそこまでの愛さ

 

そんな論理的な整理

 

バランスの不均衡に目がいく

 

 

 

そして一番言いたいのは感情に大切にしてあげることと、楽しみを覚え続けていられるように努力する

ドラマの中の変化は現実には全く起きない。

ただ目の前の世界の見え方が変わるのに何年もかかるというだけ。その自覚で、なんとか無理しなくても幸せに出来ることを

感情を大切にしながら、一歩ずつ前に

うまく行かない時も仕方ない

やるだけやったなら

 

 

 

変わり者には変わり者が

当たり前には当たり前

付き纏うものは世代を超えて引き継がれていくだろう