生きる意味を探して

読書をしたり

興味のある内容について調べたり

接触れると自我が壊れてしまうので時々傍観したりして

勉強や行動を通じて自分とは何なのか?

ひいては原子とは宇宙とは世界とは感情とは酒に酔った時の痛みについて

どれもこれも信用に値しない日々を送って過ごしていて

たまに非日常感のある暮らしぶりに身を投じて、少し良い気分に浸り

ストレスに自ら巡り合わさって大変だななんて生きる意味を作ろうとして

基本的に人間的に生きることと自然的に観察することの対比でいくと人間的に生きた方がわかりやすいし簡単だし、死ぬまでの時間を潰すという意味では娯楽に満ちているし

皮肉や嫉妬に塗れている自分も可愛いし、大人になれない自分も可愛い

子供のママの自分はそのままでいたらいいし死ぬのが怖くなればお母さんと叫ぶのが人間的に生きることだから

死ぬのが難しいのは人間的に生きることの対比だからで

簡単には死ねない構造をしているが、諦めるという脳の最終手段的なSOSブザーを皆保有していたりしてあとは多くの場合気づかないでいるというだけ

子供を産んで排泄して慕情に満ち溢れて、そういった人間的に生きるという寿命の全うについて良いと思うし、でもどこか自然的に観察するときのその無意味さとかがふとそよ風のように自分の左耳を掠めた時に、なんでこんなことしているのかな、なんて思いもまあ思わなくはなくてそんな日々にせっせと時間潰しを繰り返していくうちにあと何年だ

大きなイベント無くして大きな変化も齎されないだろう

自分で思うのは自分でいくら頑張っても努力は努力した分しか返ってこない

環境を変えたら大きく変化する、とかも思うが、それにしても人間的に生きるって意味ではあまりに無意味すぎてたまに貪りたくなってしまいたくなる時々

日々戦争でも起きたら良いのになんて思わないが起きたところで多分ただ人間的に如実に感情の解像度が上がるだけでいずれ増幅は終わるし、すごくつまらないし

一方でそうした怠惰や大きな流れに揺り動かされることの人間性、ひいては知性を有した動物性について凄みを、こうして文章という兵器で誰かを傷つけるような真似を、兵器でする凄みについて(この文章を綴るためにどれだけの動物が死んでいくんだろうかなどと思う)

申し訳なさや、家畜のありがたみに対する、自然との共生という自覚の、圧倒的な乖離について悲しくなったりして、時々本当に治らない不治の病的なところがチクリとなった時はこうして反動のように意味のない行為に、それもまたmouning timeということになるのかもしれないが、知性は死なないね、なんて幼稚さをかっこよく綴ってみたりしている今

頑張ってもなんというか所詮はこんなもん。という虚しさを、直視することの怖さから目を逸らすために生きてるわけじゃない、というか、そのつもりはあんまりなくて、ただ動物的な遺伝子の誘導には逆らえないっていうその旨を理解した上でお付き合いをしましょうよって皆に言い聞かせているんだ。大人ってすぐわかるものに目が行く。

 

そんなこんなで昔のように

くだらない慕情でもってして江ノ島に行くこともなくなれば、

神経質だからこそわかりえた共感性の有り難みについても冥王星くらい離れれば

何が生きる意味なんだと言わざるを得ない。

文筆家にでもなれば心貧しい暮らしにも僅かながらに美と言えるような個人的満足があるのかもしれないが

それでも果たして人間的に生きるという意味からは逸脱があり得ない

外部への過剰反応もそれはそれで俺、という自己の定義ではあるし、内部への無視という外部による創出も凄い

自分にはわかり得ないことの方が多いが、それでも生きる意味はない

パンセに書いてあった413の内容をたまに思い出しては、病んでるな、とかほくそ笑みながらも生きる意味はないな、なんて虚無感を侍らせて今も意味を求むなんていう綴り