どうしたの?と
視聴覚室の最後尾にぽつり体育座りしている自分に
初めまして代わりの声掛け
母に似たものを感じた
苦労が培った愛情や寛容の眼差し
彼女の遠くを見つめる時
いつも失望や愛の眼差し
ないし虚空を感じた
若い「愛情表現」ではなく真に「愛を感じるもの」が必要
手にするために膨大な時間と経験が必要だと計算出来てしまった
理解には程遠い感情だ
30を過ぎて相変わらずに虚空と向き合い一人で居る頃合いに
ようやく物心や分別のついた僕が「ごめん!」と言って、もしかすると花束でも持って(本当に葛藤しそうだ)謝りに行く
自分の優先順位が下げられた後の最後の虚像
誰かに「狂っている」、執着だ、などと指摘してもらえるのなら、俺もやっと報われるだろう。
幸せと噛み締め失うこと
挑戦することの恐ろしさ
これからもまた挑戦することの大変さ
そんな現実に直視するのが少し疲れる
春はそこにあった。愛している時期が確かにあった。
ご飯の美味しいのが20歳を過ぎてようやく分かった。
トマトが嫌いなだけで喧嘩になるなんて。
軽井沢での思い出が昔の思い出になっている。
心は勉強と違って難しい。
空虚な自分を象らせるために迷惑もかけたりしたけど、最後はおあいこ。
楽しい日々は永遠に続くように。
緩やかに生きていけるように。
中野を通る苦しみは、いつか綺麗に消える
中央線沿線が今ほど嫌いではなくなりますように
まだ俺には終わりも始まりも来ていない