right thing

今更になってふと思うのだが

ハンティングに出かけた人が欲しているのは死んだ鳥ではなく、鳥を捕まえられるかどうかの感情報酬だということと同じで

お金があったらあれが出来るといいな、はきっとお金があってもやらない

というよりかは

やってしまうと夢が叶うので

叶いやすいものほどやりづらくなる

 

なので少なくとも私はいつもやってもできなさそうなこと、に挑戦することこそが生きることの至上命題に感じられた

 

出来そうなことは、多分出来るので、やる意味がないんじゃないかと思ってしまう

そんなだからコツコツと勉強しなかったツケはちゃんと被った

 

逆にそういうことでそもそも悩まずに

大人に言われた通りにやった子供たちが

存外良い大学を出て社会に出て得をしてる

全員って訳じゃないけど

対価と報酬の制度設計が良くも悪くもよくできてる

 

なぜかといえば別にそのシステム自体が本当に最善であるとは自分には思えないからである

 

おそらくそれは自分の理想が強いからで現実と乖離しているから

 

どうあるべきか、から考えられる人間なぞ

そう多くはない

らしい

 

ここが一つ目の落胆

 

 

 

 

 

 

家族と社会

子供の頃の自分は叱られたかった

多くの、一般的な家庭、と言って良いのだろうか

社会の平均値的な家庭というのは

だいたい父親が子を叱る

それは社会規範を学ぶプロセスであり

自己満足または恐怖からくる行為ではない

子供を将来おかしくさせないための行為

 

それが不足していたと非言語では重々課題認識していたんだと思う

だから非行を行い

誰かから叱ってほしいと願っていた

 

父曰く、そして父自身もそういう育ちゆえに仕方ないのだけれど

自分の子供なのだから

大丈夫

ということらしかった

 

その信頼は大切な一方で

だからといって何も言わないのは違うと小学校の頃はずっと思っていたので

いとこの大阪のおじさんの

広島へ帰郷した際に叱ったり

意味もなくコケに(ようは子供として)扱われたりして

あれは決して愛がないものではないと

やはり子供ながらに純粋なまなこではしかと理解していた

だから嫌だけど、嬉しかった

もっと叱られたいと思っていた

広島にいる1日や2日しかそういう体験はできなかったが

 

社会規範とは

 

 

家族を馬鹿にする人というのは

なかなかに大変な暮らしをしたのだと思う

 

だからあくまでも客観的に捉えようとする

自分さえも傷つけてしまうから

 

とはいえ

自分は自分の家族の生き方が

あまり社会に適応するものではないと

直感的に理解したんだろう

 

そこは感応の良さこそここまで生きてこれた遺伝子の先祖のおかげ

 

だから

嫌でも仕方なく

やりたい、ではなくてできる、をいわば増やしたのだった

 

できる、を増やさないと自分の家系がダメになると思ったから

 

 

今、それなりに自由になり

ある程度の権限も行使できるようになった

社会に対して

 

あとは一体どうすればいいのか

それをゴーギャンゴッホのように

彷徨う、そこを停滞するのではなく

 

前進する

試す

転んでみる

といった

失敗

そういう方式で

より生きていきたい

 

なにがright thingなのかを意識して