本当にやりたいこととは一体なんだろう
内向的に自分のことしか考えないでいるとすぐに陥るワードだが
考えることに満足して実態のところは見えていないのではないか
サッカーを好きな人は
幼少期にサッカーに間違いなく触れただろう
サッカーとは何かを知らずに、好きになることは出来ないからだ
知ることと好きになることには密接な関連がある
一方で、知ったけど嫌いになるものもあるので、ここには分岐がある
それで、好きになると、やりたくなる
ここは割と一方通行だが、好きだけどやらない場合もあるか。
シンプルに、好きだけど、見ていたい場合と、やってみたい場合があるのだろう。
あるいは、好きの後は必ず一度はやる、あるいは真似をする、を通るが、
そこからやり続けたいになるのかどうかはまた別の話、ということかもしれない。
とどのつまり、やりたいことは、マークトウェインが言う様に
人間はInputされたものに対しての解釈(Output)しかしない意味で機械である
のかもしれないのかも。
とか考えると、私が今までやってきたこと、今やっていることや、これからやりたいと思っていることたちについて、私はどこまでを自分で選んだと言えるのか。
多くの場合、私たち人間は遺伝子の塩基配列によって行動を左右され、
それをさも自分が選んだのだ、と脳的に顕在的に"意識"して決めつけている
例えば今私にできる、目を開ける、瞬きをする、タイピングをする、椅子に座る、足の親指を変に曲げる
これは自由意志であるとも言えるし、そうでないとも言える
自由意志の定義次第では、自覚していなければそうではないとも言える
と言うわけで、本当にやりたいこと、と言うのは無数に日々の生活の連続にそもそも潜在的にはあるし
その一方で、脳的なイメージを持つもの、私で言うと芸能事務所に入りたいだの、でも今で言うと経営者の方が気質的には合ってるだろうとか、そもそも個人事業主としてやっていくのに飽きてきたとか、でも自由に飽きて疲れている面もあるし、、
なんて言うのも全てやりたいことのようで、そうでもない。
人間の性格や気質は行動によって多分に変わるし、そのきっかけを大人たちは持たない
大人は武器を持ったら戦ってしまうと知っているから、らしい笑
私は今高円寺に住んでいる
マレーシアに移住したいと考えた
宮崎に住みたいと思った
実際に物件を探してみたし、地元のMMAジムにもお邪魔した
しかし今選んでいるのは高円寺の住処で
そこにはうるさい頭の悪い女が住んでいて、
うるせえな、と我慢をしつつも、この立地にしては異様に安い家賃に安寧して
次にじゃあ家賃高いところに住みたいのかというと
そもそも家賃って年収との掛け合わせで、年収稼ぎたいかって話で
それは仕事が好きかと言う話になって
それは好きな仕事をやれているのか、
反面はやれているけど、チャレンジしなくていいのか
それは人間として挑戦をしなくて良いのか
そもそも挑戦とは、塩基配列による指示命令系統では
あれ、それって真理じゃね。宇宙どうなってるんだっけ
と一旦飛躍した。
ともかくまあ、私は宇宙のことも、死んだ後のことも気になるけど
目先の話としては生きやすい自分を作りたいし年収も五千万くらいはあっていいし
魅力的な女性と一緒に居たいし
死んだらどうしようとか思うし
あと何十年生きれるんだっけとか思うし
そのうち数十年は眠るだけだよなとか思うし
そう思うとあと動ける寿命っておそらく30年とかしかないんだな実働
とか思っちゃう。
それで、今やるべき本当のこととはなんなのか
登るべき山とは
悩みに悩んでも解決はされない。
それは塩基配列先輩が指示を送ってくれるから
そして私はその程度の宇宙の塵だから
足掻こうと足掻くまいと世の中何も不変だから。
プーチンですら世界は大きく変えられないのだから。
自分一人の意思決定がさほどやりたいことについて
意味をなさないのだと無力さを覚えてこの幕は閉じる。
明日からまた、それでも生きていく。
少しだけ