他人を不幸に陥れない、唯一無二の方法

「三つ子を育てる苦労ってヤバイじゃん?だから懲役3年って判決に、2万人くらいの三つ子の母たちが署名活動を行ったんだってさ。」

「なるほどね。難しいね。そういうのは。そういえばいまおれが読んでる本も似たようなお話だったわ」

大江健三郎の書いた「個人的な体験」って言うんだけど、子供が脳リウマチで生まれた葛藤で、昔の女の所に入り浸ったりアフリカ旅行を企てたりするんだけど、結局は受け入れて大人になっていくって言う話。でもなんか大学生になってようやく童貞卒業したって感じなんだよな、文章が。だから嫌い」

 

 

クスクス

 

 

隣の席の男女が笑い始める。

 

 

敏感な私はそれを感じ取る。

 

 

「笑っちゃうよな。。」

「うん、笑っちゃう。。」

 

 

明らかにこちらの話の中でも一番最後の方に耳が傾いて、嘲笑している風な態度を見せてくれている。

 

 

私はこんな出来事でこう思った。

「なんでこの人たちは、人の話の中でも自分にとって都合のいい部分だけを選んで、論う事もせず、嘲笑という、繊細な人にとってもっとも不愉快な方法を取るのだろう」と。

 

そして、私がそう感じているのだ、と述べると

「それって被害妄想だよ」 

と言う。一連の流れが出来上がっている。

つまり土俵は彼らの上らしい。笑

 

少なくとも彼らにとっては、その笑いがこちらにとって不愉快であるとは思っていないに違いない。あるいは、思ってもバレない程度に責任をひた隠しにしようとしているのだろう。

 

 

例えば街でこんな会話を聞いたとする

「やっぱりね、私はね、この世には神がいると思うの」

 

敬虔なクリスチャンでもない限り、あなたはこう思うのではないか

「何を言ってるんだろう。変な人だな」

 

では、彼らだったらどう反応するのだろう

「ウケる。笑っちゃダメだよ」

 

 

そう言う事である。

他人を不幸にする一番簡単な方法は、自分からアクションを一切取る事もなく、他人の態度や行動に対して批判を間接的に示す事である。

 

最早そのことについて議論の余地があるとすれば、私が童貞〜と言うキラーフレーズを使うことをやめたら良かった、と言うことになるが、言論の自由や、前後の文脈を真面目に聞いていない人間の論い方ではそもそも私の伝えたかった事実を素直に聞き入れられていないのと同じだから、それは不可能である。

 

と言うことで、私は吉祥寺に住む全ての若者を憎む。

そして彼らと言う生き物はそれに対し

「それってちょっと極端じゃない?」

と言う。

なぜなら彼らは、

世の中のルールが変わることは自分には関係ないことと思う人間だからである。

スマートフォンが普及すればスマートフォンを使ってセックスをするし

AIなんて流行りものは「すごいやつ」が携わるもんだと思って思考を止めているからだ。

そのように、自分の思考には限りがあると早いうちに見切りをつけたほうが、メタ認知能力は衰えるために「吉祥寺に住む全ての若者を憎む」と言うプロパガンダジョークがジョークじゃなくて真面目な意見だと本気で思い込む他ないのである。

そして彼らは、我々のようなプラットフォーマー側が作り出すルールの元で踊る消費者に依存し、そんな中で「浮気がさ〜」だのとくだらない会話に金を払って幸福感を得ようとして死んでいく。

そんな人間とともに過ごすことがこちらにとって最大の不幸である事も、最早言論の余地はないだろう。

 

 

 

となるとだ、彼らのような、このような文章を読む能力さえもない人間にとっては、私たちのようなインテリゲンツィアだのと勝手にラベリングされ、会話を忌避される存在は、別の世界に逃げるしかないのだ。

別に我々は、彼らを憎む気があるわけではないのに。ただ、当たり前のことを当たり前にやっただけの人と、当たり前なんてないと思っている人の差だったりするのに。

そんなことで、彼らは集団内部での気持ち良さだけを優先して、集団同士でのコミュニケーションの断絶を図る。

 

 

さて、唯一無二の方法だが、ここまで書いたことを全て逆説で捉えることで終了した。

お疲れ。