言葉は武器
暴力
日本国憲法第九条にある言葉は、当時の戦争惨禍を目の当たりにした日本国民に対し、今後の展望を展開するために、当時の識者が頭を振り絞って考え抜いた共通言語であるように思う。
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
ふと日本に住む一個人として、これからの個人、未来、希望を、この国の根本課題である"漠然とした不安"に照らし合わせることで、安堵のある解答を自分なりに一瞬感じ取ったのでメモとして記す。
この思想は尊敬する若い知人の言葉を拝借した。そういった若者がいることは素晴らしいことだと思う。ひねくれものだが、私もそういった環境に、今になると出来ることなら戻りたい(もともと得られる環境にいなかったが)と思ったりもする。人間には智慧があるから、適切な環境さえ与えられれば適切に育つものであるから。と思い
ちなみに、私にはこれといった政治的思想は持ち合わせない
ただ強いて言うなれば日本国民に対する思想は以下だ。
前提に、我々人類に地球上?銀河でも構わないが、出来ることは精々が本気の意思決定であるとしか思えないこと、意思の強さが人間の唯一の本質であること
純粋さを見失った意思には誰もついて回らないこと
そしてその純粋さにはやはり暴力が必要であること
何かを成し遂げるには何か失うものがあるので、漸進的にそれを最小化するのである。
そうした政治的思想であるからして
これを踏まえて言うと日本人には精々農耕民族としての文化や宗教、芸能しか持ち合わせておらず
明治維新に至るまで国外に目を背けたことからも世界政治には出遅れており
これから戦うにはあまりにも遅いと思う。
あまりにも遅いのでは、何をしたら良いのか
私が思うに、"一度停滞を受け入れる"ことにあるだろう。この文章の大黒柱はここにある。
つまりそれは現在の外交貿易を一切抑えるのではなく、最小限にとどめた上で
我々人類にできることが何なのかを改めて考えることだ
なぜ、今に至るのか?これからどこへ向かうのか?が熟慮されずにいるこの世界における指針は作り出す他ないから。
それに早い遅いの問題は実は関係がないのである。遅い早いの事実は存在するが、その事実に対して課題意識を持って立ち望むのかどうかは個人間の意志の問題である。
志半ばに朽ちるのもまた儚く美しい。できることならその数は最小限に留めたいものだが我々に出来ることは個人の最大限の意思表示とそれを断固として貫き通そうとする覚悟である。
戦いの準備が出来たのなら何も考えずに向き合い続ければ良い。そうして人類の文明は進歩してきたのだから。
あるいは、恒久的な自然との調和を最終回答とすることによって
迷いを打ち捨てた文明を最後に残し、子孫繁栄を行わずこの未来にも過去にも価値を見出さず死のう