今日友達と会った
高校一年からの付き合いなのでざっくり7年以上
彼からの僕の印象は
見下しヤロー
な感じだ
まああながち間違いではないと思う
私は出来ることに価値を見出しているが
彼は出来ることにそこまでの価値を見出さない
見出す、というよりかは
もっと目の前の現実に感謝をする人
と言った方が良さそうだ
目の前の現実に感謝するのはそう容易いことではない
特に私のように合理的で、正解を選んで、器用に生きてきた人間にとっては。(そうしないと自我が死んでしまうと思ったから)
現実を噛みしめるには相応に体力がいる
それは肉体的な苦痛と、現実を直視したが故の精神的な痛みどちらもだろう
自分にはそのような
苦しみとか悲しみとか分からない
分からないというか…分からずに生きてこれたから。実は偶々なのだと思うが。それも。
人には偶々今の環境を与えられて、その差分に有り難みを噛み締めて、そんな風に出来ている
私にはようやく人を慈しむ心というのがわかってきたように思う
これまで、無論人を大切にしたことはあれども
その起点は常に?心配性からくるものであった
深く考えずに合理的に生きて仕舞えば簡単なところを感性とか邪魔して
感性は相当に豊かだが、なによりその色合いの違い
合理的な人間のことを空っぽの人間だと言うのもまあ間違ってはないかもしれない
感性だけで生きてきた人からすればそれが自分を象る訳で。それは、若くしてピアスをあけることだったり危険を味わうことだったり様々大人からするとはしたないこともあるだろう。
自分は基本的に調和した状態を望む
それが真理
合理も感性もどうでもいい。強いて言えば全ての中心を行く生きる意味もないし生きようとする理由もないしただ空間に浮遊しているだけの状態
むしろ感性に邪魔をされる方が厄介でそれにはお手前の合理性と、覚悟で片付ければ良い
良い加減な出来事も諦めれば、いや、今日の友人から言わせるには
期待をしなければ
万事快調だ世の中ってそういう風に出来ている
不思議なのだそれなのになぜこんなにも名声を欲しがるのかとか1人でも多くの花嫁を幸せにすることに時間を割いているのかとかが!
別に子供もほしいわけではないし。生みたきゃ差し上げますどうぞくらいかもしれない。本当のところ
ともかく、苦しいから脚色を加える生き方にはあまり関与しない方がいいがね私は
でも大切なものを大切にするのにはまだ手が及びそうにない。でもそんな視座だけ得た。
成長に余念のない生き方をこれからも続ける
終わりがくるまでに今を全力で生きる