凡庸な男

その男に際立った特徴と呼べるものはなかった。

強いて上げるのなら彼がまだ6, 7歳だった頃、上級生の母性を掻き立てる天使のような顔立ちと、体躯の小ささが織りなす可愛らしさが原因になって、授業の休み時間に見知らぬ上級生の女子がクラスの扉を開けて彼の名前を呼び「ちょっときて」と言われるがまま、怯えながら付いて行くと、校庭の裏にある木の茂みへ連れて行かれ、そこにはやはり他の見知らぬ上級生の女子が6, 7人居て、彼女たちが円になって彼を真ん中に立たせて、誰かが彼に向かって言った

「ねぇヨシダくん、この中で誰が一番好き?」

この時が彼にとって唯一無二くらいの事で、それ故に最大の、他の人と比べると凡庸とはなかなかに言いにくい経験であり、最初に書いたような身体性や純粋な眼差しから伝わる本能的な慕情などの特徴から訪れた機会であろうから、こればかりは彼にある際立ったものとして認めても良いのかもしれない。

 

しかし彼はそれ以外については全くもって凡庸そのものだった。

その後何事もなかったかのように間も無く背丈が伸びてくると、彼はただのちびすけへと転身を遂げていった。さらに精神の方も発達が目覚ましくて、周囲の同級生とはかなりの軋轢が際立っていった。

彼は自分が可愛がられることで、可愛がられないことを恐れる副作用を罹患した。

副作用にどっぷりと陥ることでさらに、周りからあまり可愛がられない子に進化していく。

彼には他者との共感という大事な素養が抜け落ちていたため(それは愛されすぎたが故に、甘やかされたと言っても良い)わがままな性格で、誰かが自分にとって重要なものを犯そうとしている時には、とっさに悪さをして相手の最も嫌がる方法を実行するようになった。

例えば子供のおふざけで小馬鹿にされたとすると、背の小さく非力だった彼は精神的嫌がらせ以外に何も手段を選べず、相手の運動靴を隠すとか、他の非力な子に当てつけのような暴力を振るう様であった。

彼の知能は人並みの部分とそうでない部分があった。計算問題であれば大抵はクラスの1番手であったが、熟考を求められる問題に面すると途端に逃げ出した。

記憶力は悪い方ではなかったが、学びに対する向上心はなかった。

人を観察する力はずば抜けて高かったが、他人と素直に会話をする機会がなかったので、誇大妄想を膨らます原動力になっていた。

実際彼の成績表には処理能力は高いが、人の目を気にする癖があるので、1人で深く考える問題に面した途端に勿体無いなどと記されていた。 

 

中学校へ入ると、最初の母性による生存戦略は、全くもって機能しなくなっていた。周りの子が彼よりも早く大人になっていたからだと思われる。

毎日朝に起き、学校へ赴いては、何をするでもなくノートに落書きをし、友達とも思えぬ周囲の同級生に茶々を入れ、授業は半分空耳で聞く。

学校が終わると部活へと赴き、相変わらず背の低い彼は特に活躍しなかった。つまり、特徴のない凡庸さだった。せいぜい小ささからくる周りの小馬鹿にした嫌がらせ受けながら、彼なりの繊細な感受性で持ってしてそれに気づき、傷つくくらいはあった。

また、心の底で若い頃時折考えるように、漠然と死に対する恐怖心を覚えることがあって、また親子の愛は当然だと信じ込んでいた。

彼は刺激が足りないからといって周囲の非行少年とつるむようになっていく。しかし彼の周りの非行と言えば、人を傷つけるとかではなく、軽犯罪に近く、無様だった。

そんな毎日が繰り返されるだけの中学校生活が彼にはあった。卒業するまでに多少の誤差はあれど、そこまで際立った事はなかった。

1点だけあ挙げるなら、彼はピアノを習っていた。

身体能力差が明確なスポーツと比べ、ピアノに関していえば割と上手な方であった。

ただし、素晴らしい先生のもとで授業を受けるだとか、スパルタに毎日何時間も練習するだとか、プロの生活とは無縁であったことを断っておく。

彼が住む街の駅付近にあるピアノ授業の専門店で、1人のピアニストの先生に毎週30分ほど練習を教わるくらいだった。

ピアノこそが僕の人生全てだと言い切れるほど覚悟はなかった。

それでも彼は公立中学という立場もあり、その特徴は少し目立った。中学校では唯一男でピアノを弾いていたからか、同級生の女子からもてはやされる事はあった。

休み時間にの2人の女子が「ヨシダくん!」と窓ガラス越しに廊下から彼を見て、手を振るようなことであった。 

そんなわけで彼の半生を振り返ってみたが、この凡庸な男というのは、何れにせよ、どうしても主人公にはなり得ないのである。

主人公とは物語の中心人物であるという意味だが、物語を地球というフィールドに置いた場合、これに当てはまるのはスティーブ・ジョブズだとかどこぞの内閣だとか、はたまた有名なアーティストなど、皆詰まる所で金銭を担保できる環境があり、才能と努力の継続があり、そしてその結晶として"技術"を賞賛されることしか道が無い。

彼には特に当てはまる特性がないため、あくまでも登場人物の一部の、凡庸な男でしかないのだ。 

特筆すべき特徴のある人間を歴史に残すなら、わかりやすく価値が見出せるのだけれども、何も特徴のない凡庸な一人間に記すべき内容があるとするなら、それは一体なんなのか。