私にとってブログ
ひいては知覚を体現しようとする表現技法に
時間を費やすというのは
発散といった意味が最も適している
対義的に、何かを感じたとしたところで
何も発散先が見出せない場合にブログ
そしてひいては文章に、言語に、考えることに
私の魂が宿る
そしてどこか電子空間の中に閉じ込められて
一種のcollectionとして
思い出の中に閉じ込められていく。
それはまるで池袋のアニメオタクが
自分の好きな女のフィギュアを獲って
家に飾るのに共通項が見出せる。
そんな感じで、私にとっての文章は
生きがいである。
生きがいは様々な技法を持ってして表現ができ
あるときは高校時代からの知人を通じての飲み会であり
あるときは小学校の同級生のツテで知り合った東大卒のフリーターとの会話で
またあるときは宇宙航空研究開発機構で知り合った大学の後輩との飲み会で
そんな連続性が快楽として、私の生きがいに近づいていくから
そんなイベントが連続発生した11月は、おそらく不幸だったのだろう。
ブログが書けなかったという意味では、だ。
ありがとうという思いを胸に抱きながら、いくばくかの喜びを噛み締めていく
こんな不幸もたまには悪くない気がしてならない。