暗黒の壁

やりたいことをやる

あるいは

やりたいことをやれ

 

どうもこういった言葉に対しての疑問が抜けないのは

私の将来の悩み、いや、大学生になったくらいの頃から発露した周囲との軋轢のようなもの。

 

多くの場合、人は自分がやりたかったのはこれなんだ、と信じ込むのがうまい

理由はわからない(私は多くの場合に当てはまらない)

 

私がやりたくてやったことなど

冷静に考えてみるとちっぽけもなく

あるとすれば本当に、小さな意思決定の連続で

しかもそれは結局のところ姉の影響だったりそういう外部からインプットしたものを踏まえてどう反応するのが最適化を踏まえただけの選択であり

そこに自由意志などなかった

 

私に取っての自由意志の定義と、その他大勢のそれとは全く違っており

それが軋轢の一要因なのだともわかる

 

大抵の人間にはここまで悩むような昨日は備わっていない

備わっているとしても無駄だなって理解して辞められるのだが

変に勘違いを起こしている自分みたいな人間に限り

こうした思考にとらわれることで

あたかも自分の世界に、

自分だけの世界に入り込むことができたと言い張る

 

本当にやりたかったことは

冷静になればなるほど

誰かに教わった何かを模倣したいだけだったって気づく

し、そこに少しのオリジナリティだと信じ込むアディショナルなものも

所詮は知識内での積み重ねだ

そう思った瞬間に

私の頭の中では着想があまりに価値のないものだと

自分を自分で肯定しない方向へと進まざるをえなかったわけである

 

幸せになりたい?

そう問われてももうイエス、とは答えようがないのが正直だ

だって世の中は腐っているし

みるからに明らかにどんまいで

私には生きられないし。

それは私が私という存在を過大視しすぎているのが最大の要因であることも

薄々は分かっていながら

こうやって貴重な人生を無為徒食に過ごしていくことで

ああ、なんてざまだよ、お前は。

そういってもらえることでようやく一つの物語として成立する

そんな幸せに近いような感覚に

ある阿呆の一生などを思い浮かべる