1週間前の下書き

飛行機があまりに暇なので、というか手に持っている本の内容があまり今の心身にとって良くないものなので、代わりといっては何だが、小言を書く。

高校の話。

15〜17歳の自分は純朴に生きすぎていた。相対的に、世渡りが下手だった。

世渡りの定義は"自分の都合の良いように他人を支配し、利得を得ること"。

書き方が悪そうに見えるが、良いものでもある。

憎まれっ子世に憚るって言葉の憎まれっ子は世渡り上手なんだと思っている。

嫌いなものや嫌な思い出に蓋をし、改善の可能性を見出すことなく、その嫌なことから逃げるように自分にとっての利益を求める存在が、憎まれっ子だと思う。

つまり、自分に引け目があるからこそ、それから逃げようとするような人のことだと思う。

で、そういう人が多く集まるのはどういう場所かというと、(崩壊の兆しが見え始めている)資本主義社会の中心である。

何故なら人が生きていく上で社会は不可欠で、その社会構造は常に変化し、その変化の中心にはハイリスクハイリターン(収入は分かりやすい例え)の世界がある。

逆に端っこの方は、そこまで変化の速度も速くなくて、ローリスクローリターンだ。

で、私が育ったのは、残念ながら東京という、世界でも屈指の資本主義社会の中心だった。

そんなところで育つということは、必然的に、望む望まざるに限らず、ハイリスクハイリターンの世界を目の当たりにする。

例えが、最初に書いた、世渡り上手の群れだ。

私自身は世渡り上手ではない。それは私の生い立ちに関係する。私の両親は変化の端っこの方で(田舎)生まれ育った。が、父の転勤で自分の2歳の時東京にやってきた。

ので、私の中には、ヒトゲノムにある田舎民としてのゆったりとした性格と、目の前の現実に立ち向かわなくてはならない後天的な戦闘本能の実装の二つが、葛藤を繰り返していたのである。

基本、物事の判断は先天的に備わっているヒトゲノムによって行われる。

自らの利得だけを考えて貪ろうとする"世渡り上手"と自分の価値観との折り合いの付け方、これが自分の人生の中で、今でも一番の課題と言える。

で、その大きな転換期の例えが高校生の話だ。

話を戻す。

自分の通っていた高校は、東京のど真ん中にあった。この辺りは、当時の自分の判断力の弱さもあるが、単純に若かったし、両親も世渡り上手ではないので、目の前の社会のレールに乗っかるしかやり方を知らなかった。

残念ながら、私の周りは、世渡り上手しかいなかった。だから、私は今でも嫌いだ。

私は世渡り上手ではない代わりに、物事の本質を見抜く力がある。そしてそれをやり抜こうとする力がある。

逆に言えば世渡り上手というのは、変化のめまぐるしさに対応する迅速な適応力、間違っても死なない程度の失敗リスクを許容したリーン型PDCAを備えている分、本質的な価値を見抜く力が余りに弱い。例えば、自分が渡ろうとしている世がどういう構造なのか、改善点はないのか、などまで考え中には、世渡りよりも私のような考えの方が、時代に変化をもたらすという意味では重要な存在になる。

私が当時入っていた部活動なんかは、まさに世渡り上手の群れであった。

東京育ち(=世渡り上手。序盤の説明からして異論は無いだろう)の両親の元に生まれ、ヒトゲノムは既に表面的な価値を舐め続けることに喜びを感じる形状をしている人たちが、そこにはいた。生まれ持った表面的な可愛さやかっこよさ、それを利用した若すぎる行為の連続。初体験の時期が年々早くなっているのは分かりやすい例だ。早く性行為を行うということは、本来、早く生命を保存しなくてはならない、という危機感によって発作するものであるが、近年の日本は安全・衛生面から見て世界でも随一のモノである。ではなぜそんなに早熟して行われてしまうかと言えば、報酬系回路(パチンコやタバコなんかをやっている、やろうとしている時に生じる神経伝達物質のこと)に振り回されているからとしか言えない。

生憎だが、報酬系回路というのは非生産的で、進歩がない機能である。人間と動物、どちらにも備わっている。パブロフの犬はご存知だろうか。知らない人はググってみてくれ。

ライオンが、人間のように文明を発達させることが出来なかったのは、ひとえに言葉という高等技術を身につけなかったからに違いない。

だから、先のデータから言えるのは、残念なことに、近年の若者の早熟した行為が、動物に回帰しようとしているのと同じだと言うことだ。

分析はこれくらいにして、おそらくこの時の自分が言いたかったこと、それは一貫して生きる希望が当時から見当たらないこと

知覚は嘘をつけない

最近自分のことが好きになった

人の言葉には嘘しかない

脚色、現実に対してのアンチテーゼ

人ではない、知性を持った言葉には真実がある

ただしそれは人の感情だとかそういう

動物的感性の無駄遣いというよりかは研鑚されていくもの

恵まれたのだから仕方のない

頑張れた

頑張らなかった

どちらも良い

ただこうやってぼうっと毎日を過ごして

悪さはしない

どこかでまた頑張る時が来る

許せる

一緒にいる人に対して感謝していない

それが悪いと思う

どんな過去があろうと今相手になっているのは自分で

きっともちろん優劣が時系列で評価軸とともに変動して

そんなことわかっていた

わかったことと、感じることは決して常に同じにはならないし。

決意が知覚を左右する

そして、何を経験しようと思うかが、重要だと思う。

悪いと思うもの、悪いと言い続けるのに疲れた

良くなってほしいと期待を持つことを相手に期待してはいけない。

だからこの寂しさはなんとかなるってわかる

大人になるって悪いことだと、ミスをミスだと噛み締めることだと

ミスはミスじゃないと思い込むことだって出来た

はずなのに

可能性感覚の話

寝る前の小言シリーズを始めようと思う。

映えある1回目は大川勇著の「可能性感覚」という書物の読後感について。

すごく端的にいうと、人には各々の情緒で持ってして理想を描く力(可能性を感じる能力)がないと、即物的な猿になるんじゃないの?想像力働かせるためにもっと頑張んないとさ的な話。

ウォルトディズニーの名言、想像できたことは叶う。は、想像出来ることがなくなった瞬間が終わりだとも取れる。

それが、近年の国や文化の発展において、可能性感覚が損なわれてしまっているのではないか、という話。

そもそもこの可能性感覚という言葉は、確かムージルが定義したもののはず。1ヶ月前に読んだ本なので断片的な記憶だけど。

ムージルの研究を大川氏が重ねるうちに、最初はムージルの研究が題目だったが、自分の知識を織り成すことで、単なるムージルの研究ではなく、ムージルが提唱していた可能性感覚の本質をあらゆる面から展開していく、というような印象。

解説はこれまでにして、早速本題に入りたいと思う。

まずこの可能性感覚は、資本主義社会において、漸次的に減少している意識だろう。

平易に言い換えれば、どれだけの人間が、現代において、今後の人類の未来や、過去の反省と学習を噛み締め、この世界のあるべき姿を描こうと自分なりに努めているか。

殆どいないのではないだろうか。

むしろ殆どの人々は、資本主義社会の権化として、金銭の授受に人生の大半の時間を費やしているのではないだろうか。

例えば日本の学校教育は99%の識字率を誇る平等性に関して観アジア随一だったかもしれない。が、それは明治維新直後の話であり、現代のグローバル社会におけるアジアないし世界における学力ランキングは先進国最下層である。

それも、GDPと学力の相関見れば群を抜いて最下位だろう。

そのことについて、昔の田中角栄のように、改善に励むような姿がどれくらい現れただろうか。 よくIT界隈なんかで耳にする政治や国のレコンキスタ、ないしコミュニティの再構築は、これまでの政治や国という枠組みがもはや資本主義社会が成熟して、金銭以上の価値を微分的に生み出せていないことを表している。

あくまで我々時代の人が資本主義に飲まれている前提ではあるが、実際にそのような話が論われているのは事実だ。

これなんかはモロに資本主義を是として、目先の利益の追求に励んだ成れの果てだと思う。

ちなみに、この書物における可能性感覚というのは、人間の美意識的な、ややウィトゲンシュタイン論理哲学論考を発表する前の頃の形而上学のような世界観も孕んでいる。が、どちらかというとその核は、近代から現代にかけての美意識の欠落、即物的な快楽、などに課題意識を向けていることだ。つまりアートかと言えば違う。アートっぽく書いてるがデザイン思考である。

要は時代の変化というのは人間か技術、天変地異が起きない限り法則があって、それに付き従うのはある意味人間に生まれたからには仕方ない。そう割り切ることもできるわけで。

この作品は、きっとそういう前向きさだけじゃ生きていけないような、情緒穏やかな人に向いていると思う。

適当にダラダラと書いて、自分の言葉遣いの拙さを再認識しつつ、言いたいことの1%は言ったので満足します。

可能性という感覚が無くなれば、即物的な解釈と快楽に溺れて、その意味まで考えることは無くなるでしょう。

はたして考えることに意味があるのかは、分かりませんが。

考えたい人は、おそらくは素直なのだと思う。前向きさには一種の思考停止、人間らしさの排他、大脳新皮質頼りになる。

Squirrel

Do what you love.

Sounds like good words.

I thought so a few times, and did what I wanted to do.

The results told me I never can say do whatever you love.

For now at least, I never tried hard to keep any my love for all.

Even if I tried to keep anything to love, everything broke in various way.

I can't hold my love for good, for I couldn't stand believing.

Believing anything I see in direct, which is the hardest problem.

I can't understand what is believing.

What is belief, believing?

always I see, say, everything gonna be coexisting with antinomy.

Everything you look beautiful with ugly, loving anything is not so easy.

Living easily is less easier than living without thought.

Just believing anything, there must be needed to get effort for oneself.

I mean, everything to love, believe, should require to get effort.

This means "stand all injuries, even if you have to die."

You'll never die in standing injuries which arose from your love & belief.

That's I can't get in this life, forever.

and 99% of people are never able to stand the injuries.

Injuries consists in psychological, physical injury.

People who don't have reason will never be able to stand their love & belief.

That is it. It's now me.

Never say never to hold & any standing injuries. 

I'm already tired to stand and hold and love and believe anything they were all I loved, lost by myself, but don't hope to be any fucking guy.

Even if I'm so fucking dull man. That is it. It even consists of me, unfortunatelly? or fortunatelly? no, there's no definition. That is all. Everything be as it let be in.

努力

今まで努力なんて自分には必要のないものだと思って生きてきた

その原因は、やはり自分が器用だったからというのが大きかった

うまくやろうと思えば、その時々で善処したし、それがこの先の人生においても当然だと勘違いした

現実は甘くなかった

世の中に出ると

頭の良い悪いとか、行動力があるないとか、そういう話の以前にまず

ひたむきな人間が強いって知った

がむしゃらとかでもいい

とにかく、人には努力が必要

わたしはその不要性を、エピクロスのように説き続けた

けど実際問題

時間が経つにつれ

尊敬していた人も

僕のそばを離れ(もしくは最初から離れていて、距離を自覚したのか)

頑張って行く人の多さに

なんか惨めな思い

それは多分今置かれている状況てのが

若干特殊なのもある

ある意味で今は、不労所得みたいなもので生活出来るし

友達はいなくても楽しみはあるし

そんな生きてるようで死んだ生活は

こういう思考に陥りやすいかもしれないし

とはいえ

何か行動はしようと思って(社会に出て覚えた、今出せる最大限の努力)

九州へ赴いたり

オーストリアのワーホリについて調べたり

教養を深めたり

語学力を鍛えたり

してる

そんなことに大した意味も、努力と言えるものもない癖に

つまり僕がいう努力というのは

物事に向き合う自分自身と、向き合う対象が互いに価値を見いだし合っているような状況で

あとはまあそれを淡々と続けるのが良い

そういうものに感じる

うまくいかないものに深く力をかけない

離れるものには距離を

近づきたくない人からは距離を

距離を、距離を。

他人の人生に干渉する時間だって結局は

ここでいう努力っていうもんに当てはまるもの。

恋愛

数多く経験すれば分かる

質高く経験すれば理解できる

時間が経てば気付く

概ね恋愛、もっというと人を好きになって体を預けたくなって、そういう過程は

ほとんど最初の時点で決まっている

ファーストコンタクトで惚れるか惚れないか

その状態を高揚させられるか、させられないか

あとは気持ちよさの違い

穏やかにセックスする人もいるし

ロマンティックも

効率的にする人も

なんか結局、何を大事にしているかのような

気がする

自分がかなり尽くしたい部類なのはわかった

尽くされても満たされないのは

尽くしたがりだからなんだと思う

尽くしてもらって、もっと言えば力を借りたとして

それを感謝する力がない

今まできっと尽くしてこれなかったから

罪滅ぼし見たく

今一番辛いのは

無理難題を、窓口を閉ざされていること。

課題っていうのは気付くことで50%、残り50%は改善と知っている。

ロマンティックとロジック

素敵な言葉とわかりやすい言葉

効率とロマン

バランス

愛が無い。いや、亡くされたのだ。これは

私の愛は瀕死していて、それは自分の力で蘇らせることができる

出来れば、と思ったりするのは弱い人を許せていない証だから

立ち向かう力のないことを、どうしようもできないからといって諦めるような人を、私は許さない

私だって、努力ができるわけじゃない。

頑張ってるね、そう思えないような態度を取ったんだろう、そう思われている。

まずは、ご飯を食べて、寝て、きちんと生活をしよう