寝る前の小言シリーズを始めようと思う。
映えある1回目は大川勇著の「可能性感覚」という書物の読後感について。
すごく端的にいうと、人には各々の情緒で持ってして理想を描く力(可能性を感じる能力)がないと、即物的な猿になるんじゃないの?想像力働かせるためにもっと頑張んないとさ的な話。
ウォルトディズニーの名言、想像できたことは叶う。は、想像出来ることがなくなった瞬間が終わりだとも取れる。
それが、近年の国や文化の発展において、可能性感覚が損なわれてしまっているのではないか、という話。
そもそもこの可能性感覚という言葉は、確かムージルが定義したもののはず。1ヶ月前に読んだ本なので断片的な記憶だけど。
ムージルの研究を大川氏が重ねるうちに、最初はムージルの研究が題目だったが、自分の知識を織り成すことで、単なるムージルの研究ではなく、ムージルが提唱していた可能性感覚の本質をあらゆる面から展開していく、というような印象。
解説はこれまでにして、早速本題に入りたいと思う。
まずこの可能性感覚は、資本主義社会において、漸次的に減少している意識だろう。
平易に言い換えれば、どれだけの人間が、現代において、今後の人類の未来や、過去の反省と学習を噛み締め、この世界のあるべき姿を描こうと自分なりに努めているか。
殆どいないのではないだろうか。
むしろ殆どの人々は、資本主義社会の権化として、金銭の授受に人生の大半の時間を費やしているのではないだろうか。
例えば日本の学校教育は99%の識字率を誇る平等性に関して観アジア随一だったかもしれない。が、それは明治維新直後の話であり、現代のグローバル社会におけるアジアないし世界における学力ランキングは先進国最下層である。
それも、GDPと学力の相関見れば群を抜いて最下位だろう。
そのことについて、昔の田中角栄のように、改善に励むような姿がどれくらい現れただろうか。 よくIT界隈なんかで耳にする政治や国のレコンキスタ、ないしコミュニティの再構築は、これまでの政治や国という枠組みがもはや資本主義社会が成熟して、金銭以上の価値を微分的に生み出せていないことを表している。
あくまで我々時代の人が資本主義に飲まれている前提ではあるが、実際にそのような話が論われているのは事実だ。
これなんかはモロに資本主義を是として、目先の利益の追求に励んだ成れの果てだと思う。
ちなみに、この書物における可能性感覚というのは、人間の美意識的な、ややウィトゲンシュタインが論理哲学論考を発表する前の頃の形而上学のような世界観も孕んでいる。が、どちらかというとその核は、近代から現代にかけての美意識の欠落、即物的な快楽、などに課題意識を向けていることだ。つまりアートかと言えば違う。アートっぽく書いてるがデザイン思考である。
要は時代の変化というのは人間か技術、天変地異が起きない限り法則があって、それに付き従うのはある意味人間に生まれたからには仕方ない。そう割り切ることもできるわけで。
この作品は、きっとそういう前向きさだけじゃ生きていけないような、情緒穏やかな人に向いていると思う。
適当にダラダラと書いて、自分の言葉遣いの拙さを再認識しつつ、言いたいことの1%は言ったので満足します。
可能性という感覚が無くなれば、即物的な解釈と快楽に溺れて、その意味まで考えることは無くなるでしょう。
はたして考えることに意味があるのかは、分かりませんが。
考えたい人は、おそらくは素直なのだと思う。前向きさには一種の思考停止、人間らしさの排他、大脳新皮質頼りになる。