自分とは何者か・一部酒による暴論

ビジネスについて

あまりにもやりやすい時代になってしまった

AIと抽象化されている技術の基礎となる学問を学び、実践してしまう人とそうでない人

そういう差が良くも悪くも強い

 

私自身

瀬戸内海でゆったりと過ごしていたい

今この瞬間を切り取りたい

という、ビジネスとはある意味で真逆の方向に恋焦がれているのかな

 

たとえば芸術大学など

今入る意味は何だろう

 

AIを使って何とかしたい人もいるだろう

ファインアートはどうだろう

 

など

 

(そもそも藝術の意味すらも、悲しさや寂しさではなく、技術とかビジネスに置き換えて志向するのが最早マジョリティなんだろか)

 

価値観が家族ないし環境によって強制されるものであり突き詰めれば遺伝子によるか

 

自分には相反する人間愛と理性

変に二項対立俯瞰脱構築など方法論的な、科学的アプローチに造詣が元々ある

でも授業中にふざけて笑いをとるのが好きで

理性を突き詰めるのは嫌だった

受験の際はずっと嫌だった

 

我慢して2年頑張ったけどこんなもんで

4ヶ月くらい頑張ったけどBCGには入れない(素直な話、内定出ても入りたくないと葛藤してたので落ちて良かった7割、シンプル真剣に挑んで落とされたので悔しい3割)

 

論理的に突き詰めるのが得意な人はたくさんいる

その先に、というかその前に

論理的に突き詰める意味を突き詰めている人は意外と少なかったりする

 

もしかしたら、いや、いるにはいるのだけど

あまりにも才能に依る

それをし続けられるかは

 

本人の意思によるものでもなく、能力に基づいて適切に配置されるだけ

 

どんなにこの世の真理が知りたくても論理性が低ければ占い師かミュージシャン程度に終わるが(別に暴論なのはわかっているけどニュアンスだけ汲み取ってくれ)

論理性が高ければCERNなり理化学研究所なりJAXAなりなんでもいいけど研究施設に入れるだろう

 

望もうと望むまいとに関わらず

出来るできないが社会のフィルターに強く働いているのは一目瞭然である

 

そしてただ揺蕩っているとこの環境にいるということは

私も"そうである"レッテルが貼られている

 

ふわふわと生き、何故か過去の努力経験からくる知恵などのコンサル業で4,50過ぎのおじさんがやるようなポジショニングの暮らしを

 

たまにぼやきながらも毎日昼間から公園で散歩しながら

年金受給者と小学生に囲まれる異常な光景は

 

かつて読んだ岩波文庫

偉人たちの遊学とは大差だ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

能力がないと

はじまらない

社会は丁寧に

置き去りにしてくれる

大抵は気付かないまま

それを自分が望んで選んだとか思ったりする人もいる

 

 

自分にこだわりが強ければ

もっと上手くいくこともあるのかも

 

結局アスピレーションとされるものが人間である以上は大切で

自分はそれを裏切られ、というかまあ普通にうまくいかなくて

別の形で取り組むには精神的に脆くてここにいるって話

 

 

自分は誰かと繋がりたい

しかし簡単なことではない

波長が合うって確率気が気じゃない

 

AIが発展しようがわざわざ日本に来てくれている外国人の道に迷う、注文に困る、その純な心に向き合いたい

それでいい

お礼とかいらない

ただそういう

好きな人の役に立ちたい

 

 

思い出した

僕の周りの見知らぬ日本人は甘やかされ過ぎだ

だから別に助けたくない

 

本当に真剣に戦ってない

生きることをしていない

まずは精一杯生きるところから始めたい