自己肯定感と不全

だから言ったろ!やっぱりそうだった。

自己肯定は根底が"自分の好きに生きればいいじゃ無い"

自己不全感は”自分の好きに生きていいんだろうか”

自己肯定からも不全感からも自己表現は可能である

ただし、自己表現時は必ず自己肯定感を孕ませなければならない

自己肯定感なき自己表現なんてそれはなんて生き地獄だ

どんなに格好よさそうに見せようと

生殺与奪結局自分の好きにやってるのだ

ドストエフスキーとか大森なんちゃらとか?、誰だか知ら無いし興味もないが

そうやって求心力を得ようとするオナニー作品には黙って巻き込まれるべきではない

自分を溺れさせる幸せがあるとすればそれは不幸だしただのアホ。オナニーのしすぎで公開処刑されたようなもの

そういうもんは、あくまで哀れみの対象物として鑑賞に値する程度であって

そこに生まれる芸術のしょうもなさに気づくようになって自己成長しさえすればいい

社会を拠り所にすることで自分のちっぽけな(持つべき必須要件の)自己肯定力を維持して、最低限の自己不全を持ち合わせているから、大企業に入らずにベンチャーで心を折らせて、自分と世の中に折り合いをつけさせた上で今仕事に集中しているんだってことを経験に基づいて気づくことができた。

 

でもそれはやっぱり過去に触れることでしか向き合え無かったし、それはそれは嫌な道のりだった。今も嫌だ。

 

自己肯定感は自己中心的瞬間だから自分以外の相手のことを認識し無い

”自分がよければそれで良い”瞬間

自分の場合はそんな態度や姿勢が嫌で、

12歳くらいか?もっと前から”自分がよければいい”が本当に正しいのか気持ち変わり

"自分より誰かに優しくして傷つけ無いほうが幸せだ"と思ったよ

周りは誰一人として、出来ていなかったと思うけど。そんなことを考えているようにも思えなかったし、自分だってそれを言葉にして説明することは今になってようやく少し、輪郭が掴めたくらいだ。

 

自分を愛し、誰かを愛するためには、

まず自分を誰よりも幸せにし無くちゃいけ無い、

そのためには己の限界を知るとか

たくさんの血を流し努力が必要であることも

どんな言い訳をして逃げ切ろうとも必ずある

人のことを幸せにでき無い人間に子供や家族を語る権利は無いよ

そしてそれができない出来損ないな人間をガキって呼ぶのさ

そういうことなら腑に落ちたよ。全て。わかった。全部受け入れられるさ

 

 

才能に溺れた皆に告ぐが

出来ることに酔ったり

嫌なこと、面倒ごとを見無いふりをするのは簡単だが

努力無き自己表現に未来はない

それに夢見るなんて本当に大した意味がないから

そんな暇があれば自分に出来ることに見切りをつけて

誰かを幸せにする努力をしたほうが

ブルーハーツのような心と歌を作れるんだよ

 

そんな、自分の幸せのためと、自分以外の誰かに幸せを与えるための

割と無駄な努力を俯瞰した日でした。

 

だから今日はguns n' rosesも気持ちよく聞けたんだね

 

好き

最近つくづく思う好きはなんぞやと

異性の好きと友人の好きは違うのかとか

ゲームが好きなのと美しいものが好きなのは違うのかとか

好きで片付けられている正体がいまいち、ふにおちていない

自分の好きなものって果たして本当に好きと言い切れるのか

それすらも、危ぶまれる事実のような気がして

やっぱりのところ、人として美しくありたいとかそういう着地になるんだろうか

人として美しいかどうかってどうやって決めるんだっけ

純粋さって子供らしさ

子供のような心を持った大人

子供らしさを損ねた大人になることが怖いから子供らしさに甘えるのか

なんかよくわからない

好きの正体はどこにあるんだろうか

心の繋がりにあるのだろうか

仕組みの中に存在するのだろうか

仕組みって、大脳だから、大脳は生まれて間もないものだから?

人としてあるべきに突っ走る方が美しいんだろうか

なんかそれもまた残酷で

自分には出来なさそうだ

仕事にはまるのもそういう

やりたいことやるだけの勇気とか持ち合わせてないから

好きなことに好きとのめり込むこともできないし

好きなようにやることの難しさ

特に悲しさとかないけれど

だからこそ

好きに生きた方が良くてのめり込む必要は無いはず

面倒ごとすっ飛ばして自分に

結論はやりたいことやってりゃあ好きになっていくしその腹落ちをしないんだろう

抜ける、辞める、避けるというよう

今を生きるのか普遍的に生きるのかの違い

苦しみについて綴る

珍しく意味のない行為を行う

苦しみには正体があり実体を伴わない苦しみは永遠に続く忘却の果てまで

つまり実体を掴むことこそが苦しみの除去であり実体なき苦しみは永遠なのよ

 

今を生きること

は嘘を許容すること

自分の理想や世界観を現実と擦り合わせて決める生き方

時間軸の変動を許さない

 

普遍的に生きること

は嘘を許容しないこと

自分の理想や世界観を時間を無視して貫くこと

生きとし生けるもののあるべき姿を追求する姿

できることならば普遍的に生きたいと思うが

そのためにはあまりにも多くを無視してしまうんじゃあないかと思った

し、そんな大層な違いのあることでも無いと思った時間は人の手によって可変し得ないものであるから

普遍的な生き方は失うものが大きければ得られるものも解釈によってのみ尊さが伴うものだ

 

どんな生き方にしろ目の前の真っ直ぐ見ることに普遍性はあり

その生き方は誰彼が決まるような話でもない自分が決めるものである

 

苦しみとは間接的に解消できないものであることを書いた

苦しみはマッサージやエステじゃ癒えない

真の苦しみは苦しみ切ったことでしか認められ得ない

 

林はいまとても苦しい、仕事が何も手がつかない程

死にたくて死にたくて

目の前の現実を投げ出したくなってしまう

23歳になった今でもね

自戒を込めて

議論が出来ないとだんだん軌道修正がきかなくなって自分はきっと正しいんだと偏った人間になりがちだ

だいたいパターンでいつものこれだ、何度目かという感じ

 

ついつい自分が正しいと思い込んでしまう

でも誰よりも自己否定感が強いのも確かで

もっと好きに生きる準備をしていかなくちゃな

23年間生きたなりのアンチテーゼを書いてみた

asyncの写真を見て思い出した

その感情を克明に思い出せたのは紛れもなく

自分のありのままに自信を持たせてもらったからなのだが

自分は

艶かしい写真が嫌いだ

嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌で嫌で仕方がない

https://encrypted-tbn1.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQLpJZaV-gnggB46PSy0SKsVJZHgdK3HVcTwsdaTEkhqCiHgXKmvBJc0jSdXg

 

嫌いとはつまり自分が弱いってことだ

嫌なものは大体自分に嫌な思いをさせるものだから、避けるために感じる自己防衛システムである

 

逆にさ、そういうものを愛でるものがいる

美しいものなんか存在しないのになんで美しいものを作りたがるのか、否

美しいから追い求めたくなる

それすなわち強い自己肯定によるものである

それが自分には出来ないからこうやってぶつぶつといつまでもゴミを増やしてるんだ!

自己肯定が是が非かという話では

残念ながら圧倒的な血縁や遺伝子、生物の逆らえない性が切ってはならないのだ

それは自分の経験

 

勝ちたくても勝てないこともあるんだということ

要するに中二病なんだよ、僕は

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/中二病

 

中二病に当てはまらないものもいる

それつまり背伸びしなくとも出来る人

あるいは出来ないがしたいとも思わない人

 

自分は完全な中二病

いまも夢焦がれてバカを繰り返している

 

高校の頃から強く思った

自分より明らかに潜在能力は高いのに

やる気がなかったりバカだったりで徐々に自分に追い抜かれて行く存在を死ぬほど見て来た

そんな人たちに背を向けて前を歩く自分に

自分は誇りなんかではなくて

情けなさしか感じられなかったよ

 

 

自分に自信を持つということは

中二病の自分と克己心をもってして立ち向かい続けることですり減らした結果気付く着地点のことでしかなく…気づいたら同じようなセリフを中学生の頃から変わらず言っていることに、今気がついてしまった

 

そうして人間の、個人の、出来る出来ないの猛烈な差異にもがき苦しむことをやめ、然るべき場所に咲く花はさぞ美しいことだろう

でも自分には咲いた瞬間に生きる意味全てを投げ打ってしまったようにも感じられるのだ

 

所詮のところこの話は、かっこつけるのが上手くなっただけの、器用に生きることが出来ただけの、背の低い男らしさもない無芸な男のあわれな豚の声

 

本当にそうなんだろうか人生の差し掛かり地点に来て思うけど変えられないものの多くがあるなかで変えられる自分は奇跡なんではないだろうかそれは選民思想によるもの

ださいけど、その先にこんな比較優位の話を捨てた自分の愛を見出せるだろうか

見出したいと思えるんだろうか

自分をものさしにした生き方を今からでもやり直せるんだろうか

これから遠い先のお話

歩んできた道のり、方向、指針、行動、原動力

人のことわりを知ることに苦悶する20年少々

今更だがたかがこんなことに20年もかかるのに人1人が宇宙を理解することが容易でないことの如何程に無様であることか

俯瞰して白ける

人たちはみな目先の幸せに必死だ

楽しさに身を窶し嘯いた愛にしがみつく素敵な光景に私は思わず射精する

物事の優先度は

主に難易度に依存する

難しい事を考えたがる事自体が非合理的なのである

難しい事というのはようは自分一人にはいささか到達不可能であるように思えるような事実の理解であって

その多くはごまかしによって人々の恐怖からオブラートに包まれている。

人は目を見て話を聞いて性格を知れば大抵のことはわかる愛人や異性は時間を共にするのと身体を交えるのとでわかる

どれもこれも快楽ではなくて分析のための苦労であるし幸せでもない

宇宙やもう一つ上の次元のことや、信頼とか愛とかつながりとか言われるものや、ベクトルの応用や、まだ知り得ない事実が包み隠されてる世の中で自分に嘯いて社会人のフリをする

あと何年経ったら全て捨てて研究に打ちひしがれるのか

はたまた諦めてインドに逃げるのか

一番幸せになれる方法

そもそも幸せになるって主観的な物言いが正しいかどうかの判断もある

幸せにすることが自分の幸せかと言われたら

期待するから苦しむこともある

他人の存在に対して自分以上に興味や好意を持つこと自体も間違っていそうだ

自分は自分で自分の幸せを見つけなければならないが

パートナーに求めるそれは何なのか

好きという気持ちなのか幸せにしたいという気持ちか

幸せにしてもらいたいのか

人は楽をしたいから

幸せにしてもらいたいと思うけど

誰かを幸せにするのは簡単なことではない

だから、幸せに均衡を保つ方法が知りたい

 

人生が長いからその時その時の気持ちに流されることもあるけど

好きになった人は死ぬまで無下に扱わない

その人のことを心から幸せを願っている

きっと付き合っている人と付き合わされている人で違うんだと思う

そしてそれって寄り添おうとする力

幸せにしてくれるあの人を幸せにしたいと思える俺

幸せにしたいと思っても幸せにはならない人

なってくれない人

なろうとすることに苦労する人

だったら苦労するのを辞めて

今ある幸せを最大限続けることが良い

別に好きな人が何人いたって良い

一番気持ちを向き合わせてくれるのが自分ならそれでいいの

でもきっと幸せであり続けることのどんなに難しいことか

こんな国では余計に迷ってしまうよな

もっと寛容に自由にすることが良い

 だからあれだ

どんなことをしても許される人が

本当の心の繋がっていて

その繋がりに甘えや