言葉に鎖を、足枷を

自分は言葉が苦手だ。言葉で表現したものは、いつも口語になる。文語にしようとしても、自分の大脳新皮質の進化の遅さが露呈するだけだ。皆に一番伝わりやすい表現をするには何が適切か考えた結果、情緒に訴える書き方に専念した。言葉遣いには基本というものがある。100人いて100種類の表現方法があってでもしたら、世の中は毎日コミュニケーションの大渋滞だ。(勝手に大渋滞を巻き起こす人もいる。)国語の授業で培った国語力というものが、自分には殆ど無かった。その意味では諦念したといっても良いかもしれない。

言葉が上手な人がいる。言葉で表現したものが誰にでも伝わる。街並みに隠れている優れたデザインのように。

(普段、人は悪いものに目が移りがちだ。道行く社会人の舌打ちが耳に入ったり、歩行者を無視して信号を横断する自動車を目の当たりにしたり。裏には無数の優れたデザインが隠れて活躍している。ドナルド・ノーマンの本を一冊読むと良い。)

彼らの言葉と自分との違いは何かと言われると、私は頭の良さだと思ってしまう。”思ってしまう”と表現するのは、可愛げな劣等感によるものだ。(人は、悪いものに目が移りがちだ。)

彼らの言葉の方が、理解出来る人が多い。

僕の言葉の方が、理解出来る人が少ない。

言葉の本来の目的が、もしも”意思の伝達”なんだとすれば、前者の方が優れているに決まっている。

疲れた。

このあたりで使い慣れない言葉遣いは終わり。

寝る