iunared

IQ127ってマ〜?

生きても良いのかもしれないと思った

東大生の友達に誘われて

なんかいけすかない表現だったけど

まあいいか、くらいに思って

結局気持ちは暇すぎて誰かと絡みたい本能や個性による防衛があったが

それらを無視した結果行くという暴挙に至ったのだが

そこでまた面白い人たちに出会うことができた

 

人と出会うのがここまで難しいとは。いやはや参っている。

最近は、東大生と話が合う。

社会福祉をやりたい事業家の子と会えた。

私は何をやりたいのか?

そう純粋に問われた時に

もう俺の人生終わってんだよな。

と思った。

 

 

 

 

だから小説家と答えることにした。

 

 

夏目漱石か誰かが言っていたが、

小説家は人間の成れの果てである。

つまりいろんなことをやった結果、残された選択肢としてそれしかない人のための選択である。

 

私にとって人生とは、とかく楽しく面白くしたくても出来にくく

ただでさえ世の中不合理で一杯で

不満をそのままにしておきたいから

ビジネスという最前線に立つほどのメンタルを享受し切れなかった。

一つのことに専念することの大切さを今一度噛み締めたいと思う。

天気の子とか川村元気とか(タイトル詐欺)

こんな人になりたい、と断言するのがとても恐ろしい

なぜかというと定義されるということは私でなくても良いという風に感じてしまうからだ。今朝読んだRADWIMPS野田洋次郎の記事(映画「トイレのピエタ」のインタビュー)も同じようこと言っていた。自分にしかできない事がやりたいというのは、至極まっとうな欲望であると感じる。

ちなみにRADWIMPSのことを調べたのは昨日見た天気の子という新海誠の映画を見たせいだ。私は長いことアニメ好きなので見る前は今作如何と思ったが、見た直後65点〜色々思い出して2満点〜!というテンプレ(があるらしい?)然り、私も時間が経つにつれあれこれ見直してきた。話が逸れそうなので少しだけにしておこう。

と思ったが、確かにこの話は今回のテーマとそこまでずれがないので、改めて書く。

私は昨日天気の子を見てそれはそれは感動した。

まず、秒速5センチメートルを18歳の時に見て、うわぁ、なんだこの胸糞。みたいな感想を覚えている。と言っても概要しか見ていない。中身は毛嫌いした。

で、その後言の葉の庭、君の名は、を見た。川村元気氏と昔働いていたリクルートという会社であった事があり(会社の期キックオフの登壇者だった)なんとなく、うわ〜うさんくさい、と思ったのが鮮明に記憶されており、

いつも新海誠作品に企画として名前を連ねていたため、私は結構苦手だった。

でも、彼の言っていることは至極正しかった。

例えば道端に何かきになるものが落ちていたとする。

彼はそれをポストの上に置き、注目を集めようとする。

そういう仕事をしている(いかにも抽象的にすることですごさを醸そうとする胡散臭い宗教的で苦手なのだ)と言っていた。

まあ、言わんとすることはわからんでもない。人の興味のないものに興味を持つという事は、ディティールを観察しているに等しい。

つまり、ある人にとっては「人間」でしかない隣の生き物も彼にとってしまえば「電車男」であり、「童貞こじらせ映画監督」である。

そういう風に、人が興味を持つ促進力という才能は、私は憧れる。

マーケティングの才覚と言える。

では、本題に入るが、

私は何か価値があると感じるものを広く広めたい願望がある。

それはなんでも良い。だからRADWIMPSのようにオリジナルソングを作れればそれでも良い。(実際はまだ好きな曲のコピー(シャルル)をAサビ前までしか作れてない。舐めんなという話だが)

そのために、何をしたら良いかわからないのだ。

いや、正確には熱中するためのトランジスタシスに欠いている。

言い換えるなら若い頃のパトス、情熱、やる気、一心不乱さ、そう言った青春的爆発、輝きを失っている。同世代にしてはある方だが、それでも無い。

私にも輝いている時期があった。17才の頃なんかは世界が俺自身だ、くらいにやっぱり確信した時もある。それくらい、物事の真理に近づけた気がした。

だからこそ相対的に、26になる今年、やばいな。と思う。

なんやかんやであれから10年間、一生懸命に生きたくせに、結果が無い。

結果というのは、さっき言った通り、"私が価値を感じるものを、誰かに広めたい"という願望だ。

例えばブライダルで日本一有名なサービスに携われたり、他にもあれこれタイトルはあるんだけど、いまいちそれじゃあ満足いかないのだ。

そこが彼らとの違いである。彼らとは、言い方が悪いかもしれないけど、名もなき素晴らしい市民のこと。

 

私はてっぺんを望む、欲張りな人間である一方、死ぬほど慎重で、臆病な生き物だ。それは自覚しすぎるほどよく理解している。

ので、あまりにも一つのことに固執しすぎる癖があり、私はいつも時代に取り残される。

映画作品なんかを見ても、時代は今、スピードと能力の掛け合わせ、それもデジタルに、実行するのが優秀とされる時代なのだ。

一方私といえば、スピードこそやる気さえ出ればあるものの、能力もなければ(ある部分はあるが、無い部分がない。求めているパラメータが飢えて、求めてないパラメータだけ増えた)デジタルなんてもってのほかだ(超アナログ人間である)

デジタルなんて吐き気覚えてしまう。こんな200年前後の歴史で名を轟かせる科学なんか、一体役にたつだろうか。人文科学系の人間らしい思想かもしれないが。私には自然科学を極めようとすることが困難。それはやはり扁桃体に縛られているかららしく、いくら理性的に考えようとも、感情が管理できずに爆破してしまうからだ。

そりゃ、ポケモン診断でマルマインと言われても仕方がない。誰か愛して四天王のあとまで使ってくれよ。

 

ということで、さっきの記事にも書いた通り、私には魅力がない。

魅力とは、人を求心する心の持ち主のことだ。

私にはどうも、人を寄せ付ける魅力がない。

だもんでこんな風に読んで欲しいと期待しつつも、読まれない事実を無視する。

希望だけが私にとっては価値だし、人類にとっても辛い時はやっぱり大事。

そういう風な作品を作りたいんだけども、その才能がない。

足りていない。だから、努力しないといけない。

では、最初に話に戻るのだけれど、

私は何になりたいの?

やはり声高には言えない。慎重だし。

でも、私は少なくとも、今よりももっとまともな人間にはなりたいって思う。

それは、誠実であるという姿勢的な面もそうであるし、人として美しいかどうかという観点でも推し量れるようなものだ。

デジタルな人間関係とは全く異なる、いわゆる社会一般とは隔絶された世界から、

それでも社会とは接点があるんだよと、訴えるような川村元気になりたい。

 

 P.S.

もしかするとこの記事は、何者かになろうとすることが精神安定的に効果的かもしれない、という示唆をするものになっているのかもしれない気がする。やはり20代にはロールモデルが重要だなあしみじみ

魅力

人の魅力の正体について考えてみた。

早速だが、考えてみた、なんて書き方にもう魅力がない、と感じる。

本題に戻るが、魅力とは何だろうか。

まずは脚色力じゃあないかと思う。

それは何かというと、人の本来の姿とは異なる希望を見出すことを言う。

例えば我々は朝起きると大体通勤電車に乗る。その中は満員で、混雑している。あなたは汗をかき、スマホをいじる。隣の人に気を配りながらも、それが当たり前の所作として受け入れる。

例えばこれが朝の人の本来の姿だとしたら、魅力はこうだ。

私は宝くじに当たり、家を買うことができた。その家には専属の運転手付きの自家用車があり、それに乗り、満員電車を高速道路上から見下ろし、朝刊を読み、パンとコーヒーを食べることができる。こんな毎日が脚色になる。

他には

人は指示されないと動かない、自信のない怠惰な人間である。

それが本来の姿だとしたら、魅力的な人というのは主体的に動き、自信がある人を指す。

これはあくまでも理屈の定義だが、いわゆる魅力的とされるものの正体とは大体がそんな感じで対立的に構築されているもんじゃない?

 

 

人は自分にないものをねだり、持つ人をねたみ、持たない自分を見ない。

そういう習性があるんじゃないかと考えたところで意味は無い、あるいはそんなこと考えたこともなかった、と言ってこの文章はまたマスへリーチ出来ないのだろうか。(リーチしたい)

 

とはいえまあ、人というのは私からするとそんなふうに見えた。

だから魅力とは、人の集団において、より多くの場合は抜け落ちており、価値があるものを持つ(あるいは持っている風)ことにより芽生える。

 

小学校なら背が高いやつがモテ

中学校はイケメンと悪いやつがモテる

だいたい人の発達スピードから鑑みるにこれらは母集団の中の偏差値70以上の小集団である。悪いやつも偏差値70とはなかなかに面白い統計である。

 

 

さて、話を戻すが、こんな文章を読む人間がどこにいたろう。私にとって魅力があることはやはり魅力的であり、それを追い求めたいわけなのだが、このブログが一向に読まれない(一部の記事を除き)憂いから、あー、魅力ってなんだ。と思った暇人次第である。

何事にも終わりあり。

面白くあらんことを願う布団の中

7,777円の考え

一応自分がオタクを自認するキッカケが中学2年生のころにあった。

正確な年次までは把握していないが大体そのくらいだった気がする。

ピアノを続けていたせいで音に敏感で、良い音と悪い音の聞き分けが出来た。

良い曲にはメロディラインがあって、リズムも非単調つまり考えられている、声も大事。そんな聞きグセを刺激したのが新宿の本屋で流れていたラノベのOPだった。

 

別に対して耳に残ったわけでもないはずだが、映像の滑らかさと合間ったあの感動は覚えている。邂逅10秒ほどの出来事だったが完全に虜になった。

 

女の子が壁の中で綺麗なダンスを踊っていて、ドンシャリ特有の重低音と高音の砂混じりな音質がちょうどその壁にかけられたタブレットの出力に合っていた。

 

綺麗だなーと思ってからはすぐ本を買った。

アニメも見た。

すぐ好きになり、はまっていった。

もしかすると小6の時とかだったか?

それ以来、まあ見る機会は無くなり、どうでも良いなり、興味の範疇を出ていったが、たまたま嫌な鮮烈な記憶の還元が生じた。

 

そのせいで私はあれこれ考えさせられた。

私は何をすべきなのか。

助けてもらったお礼があったんじゃないか。など

 

だから私はお金を配ろうと思った。

それがどんな意味をなすのか、考えたこともない。

とりあえず、遺された人に傷を1mmでも遺さない、減らす、そのために役立てるならと思いお金を使った。

思い立った瞬間、銀行のネットバンクを開いて、都合の良い金額を支払うことにした。

最初、500円か1000円でも払えば妥当、と思った脳は、指先が7,777と打った。

なんとなく、不幸な思い出も笑い飛ばせる方が良いから、僕はラッキーセブンを唄ってみた。

でも本当に、お金を使うことの意味を腑に落とせていなかった。

支払ってからの僕の考えはこうだ。

 

友達と食事に行った時、あの時支払った7,777円が勿体ない、でも勿体ない、は言葉として非常に失礼だし、自分のしてきたことに恥を覚えるくらい。だったら、腹落ちさせた方が良いんじゃないか。7,777円は僕の青春をかたどってくれたお礼に不十分すぎるくらい十分だったんじゃないかと。

でも、僕の貯金からあれだけの金額を減らすことに、失った気持ちを感じている自分がいて、惨めだ。

 

私はどこまで行っても二律背反どころか、汚い。意地汚いのが見えて、死ねばどうせ見えなくなるのに不思議な思い。

 

でもまあとりあえず、私は生きている。

 

集中して目の前のことに取り組んで、お金に余裕ができればそれで。

 

お金は余裕ない方が良い。幸せだから。お金があることの不幸は青天井だから。有る事無い事を入れないで良い。

 

あの7,777円についてまだ私は消化できずにいる。

もしかすると貯金が増えたり、さらに減ったらもっと落ち込んだり、そういう風にプログラムされている気がする。

 

だからこれに関して余計な詮索を入れるのは不毛で。私はとにかく歴史の当事者でありたいという気持ちも1%以上はあり、その胡散臭さにあまり恥じらいを覚えることもなければ、とりあえずは貸した金は帰ってこない理論で賄おうとおもう。

賄うって良い言葉だね。

賄いだ。そう。あれは賄いだった。

 

おそらく今の自分に足りないものはこう

「人の役に立てること」

「誰かの隣にいること」

「それは均衡でなくては保てないこと。

それが最も難しいこと。」

lmornin

よくわからんがこの子のためなら一生懸命になってもいいと思えるのは自分にとって幸せ

だが現実は甘くないし周りの評価もそうだ

結局は良い蜜吸うために競争原理から逃れず

自分の為を追求するシステムになってる

 

そりゃあ愛だのどうの謳ってはいられない

そんなことより子作りして良い蜜の継続吸入だ

 

そうやって生きたほうが人生のコスパは悪くないし

 

甘えた世界に生きたとも思われないから

くだらないなあ、と思いつつも。

愛を知らない人が増えていくことを遠巻きにして眺めながら朝を怠惰に過ごす感じ。