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iunared

hokorobi

ここにいてもいいことがない23年間

なんか最近漠然と不安に思うことがある

ざっくりとすると社会性と人間性について

いまや2年前の、同じような時期

まだ何も社会経験がなかった(いや、上の世代と比べたら明らかにあったとは思う)

から、自由な発想で行き着いた結論が

人が生きるには社会か、人間か

二択しかないということ

例外は、NPC、特に悩むこともなく、嫌なことも綺麗に忘れて行く人たち

そんな人間は人間ではないから

わたしはそういう人たちと関わっていたくないのだが

どうしても日本にいる限り

関わらない場所には金が回らないし

金の回るところには関わらざるをえない

つまり、自分のことをよく知り、本当にやりたいことをやっている人

自分のことなんか気にしないで何でもやりたいことをやる人

前者は人間

後者はおもちゃ

おもちゃと吸う空気は苦く

面白みがない

面白みというのは論理ではなく

人のことをどれだけ見たかだと思う

お笑い芸人がそうだと思う

リクルートのネット系の人材において

お笑い芸人になれる人、いないとおもう

なんというか

人としての深みとか、そんなのは、カッコつけかもわかんないけど

あって当たり前のことだとおもう

のだが、あまりにもおおくの、この国の年上を見ている中で

日本に生まれ日本に育ち続けている人たちの

気持ち悪さから

いつまでたっても逃げられない

いつかそろそろ、別の国にでも飛び出して

自分を幸せにすることができるようになって

それから、どの国に住むのかを決められたら

それでいいのかなと思った

でもそれは、慎重さと大胆さ

行動力と若さ

今やるかどうか

その違い

供給過多の中で生きてきた気がする

田舎に住みたいとか言うのはそういうことなんだろうか

なんだか、仕組みだとか論理だとかも

それはあると思うけど

何より

お前は何が良いんだよ

とか

お前はどうしたいんだよ

の問いに突き詰められたことが無かったんだわ

純粋に楽しめるものは、全くないわけじゃないけど

歌を歌うのが好きだったのも

なんでもかんでも

なんとなくの人に対する疑心暗鬼で

曲解するようになっちゃって

信頼の証も見出せなくなっちゃって

ガキ大将になるなんて尚のこと意味不明

書くことからはじまる

書かなければ存在しないから存在しないなら認められないから無なのだ

行動に意味を持つことがなかったしいまもない

少し、環境に身を委ねてみようと思ふ

 

高校生の頃?小学生のころ

いまはもう他人だ

人の気持ちがわからなかった

自分の中の感情はあったけど

人が定義するそれとは大きく乖離し

嬉しいは何によってもたらされるのかとか

この気持ちは何なのかとか

目に見えないものごとに蓋をして

それは喜びだよ、とか、悲しみだよ、とか

教えてくれる大人の存在が怖い

そんなものはない

人により千差万別の感覚があり

それ例えロジカルに組まれたものであるとして

それがなんなのか

人の気持ちに飾りはないし

嘘偽りはつけない

にもかかわらずこの数百年

人間がやってきたことといえば人間の排斥である

より良い人間がより悪い人間を排斥する

これからもどんどん、芸術は価値を失っていく

誰が何と言おうと

感情が言葉に置き換えられていくにつれて

わすれさられていくにつれて

音楽も消え

絵も消え

美しさも消え

残されたのは合理

人に仕組まれた最後の自爆装置

みんながあれやこれやと分析をする

そんなに頭がいいのなら

なんでこんなことにも気づかないんだろう

きっと生まれる時期を誤ったんだそうだ

語弊を孕んで言うが、省略

 

そんな気持ちで生きている

どんな条件を出されたとしても同じだ

もう変わらない

美しさの持つ正体と嘘偽りの正体を

暴いて暴いて暴きまくって

お前らみんなバカだなぁ!って言いたい

結局のところバカって、頭の良さとかじゃなくて

自分で考えるかどうかの境目のことなんじゃないかな

偏差値30でも頭のいい人はいるよ

むしろ、たくさんいると思うよ

うん。悪いけど。

偏差値70の人間の方が、よっぽど何も考えずに生きてきてる気がするよ。風貌を見れば見るほど、何も考えていないような態度がするよ。

君たちにはきっと美しさも、華やかさも、プログラミングされたものでしか理解しえないんだろうね。そのための代償がこのお金なんだろうね。

不満があるならさ、23歳の僕と、23歳だった頃の君の態度で挑んでくれよ

団塊の世代でもない限り、素晴らしいなと思う人なんてもう見つからないと思うよ。ハハ

純粋な欲望にプライドは無意味だ

本来ならば苦しむから生まれる

そういうもんじゃなく

ただただ美しいと思うから

自分を捨ててでも何かを生み出したいと思うから

人は何かを描き続けるんだ

文字に頼る人は、何かこう、美しさよりも、自分との対話に落ち着いている

自己顕示欲と自己不全感のアンビバレンス

やることと知ることとできることとわかることの違い

やることと

知ることと

できることと

わかること

誰もわかっちゃいないその区別を

 

やるっていうのはだれにしもにあてはまる

知ることは学べばわかるってことだ

わかるってのは経験して理解することだ

全然違う

知るのは、正解かどうかは別として、普遍的に落とし込もうとしたときに導かれるそれっぽい話

わかるのは、正解かどうかは別にしても、普遍的とか言えない、体験した事実を理解することだ

人はこの知るとわかるを帰納と演繹で考える

でもいずれにせよ思考は2次元的であり、3次元的な思考を操れる人はいない

まして4次元的な思考は見ない

できること

これは陳腐だ

自己不全と自己顕示があるからこそそんな風に言えるのかもしれないさ

でも、できることを繰り返すことに意味はない

できることを増やすことに意味はあるか

順序が逆だ

やりたいことをできるようにするんだろうが

言葉を頼る人について

言葉を頼る人について

ちょいと疑問に思った

写真や絵画や彫刻や音楽

様々な技法がある中で

なぜわざわざ言葉を頼るのか

言葉に浸かって文を織り成す

人たちというのは

科学者の論文でないとすれば

その芸術はなんであろうか

見当がつかないのであるが

知の愛

頭に生きてしまう

そんなところ

普通に面を出歩いて平気な顔をするほど

当然と思われる振る舞いに神経質な生き物のための救いのば

のような気がする

 

でもあれだ、たぶん

写真とか嫌いなのは

無論最初から好きでそれをやっている人は好きにしてればいいけど

言葉ほど脳内垂れ流す機能は芸術になくて

絵画や写真や音楽なんていうものたちは

ある程度の自由解釈を許す余白を持って作られた価値だけど

文字って基本的に孤独だ

分かり合えない前提で成り立っている

もともと孤独感強い人間だったと思うけど

ここまで存在意義を軽視するとどうしてこうなったという感じだ

写真が嫌いだ

写真が嫌いだ

誰に何と言われようとやっぱり

写真は

写真を撮るためにある訳ではない

撮らなきゃいけないから撮る訳であり

無論目的は人それぞれだけど

撮るからには精一杯美しいものにしたいと思うし

そのためには膨大な数の写真と

綺麗だと思う光景が必要

 

綺麗なものは微塵も存在しないことは

写真を撮る前に生きていれば分かる

なのになんだか小手先に拘って

美しさに拘泥するのをよく目にする

この会社に入ってから

そういう職種だし

そういう人が多いこと分かっていたけど

何も考えないで

楽しさに浸れる人と分かり合えるほど

幸せに生まれてないし

育とうとも思わないし

幸せになりたいとは思うけど

自分の努力で勝ち取りたいし

自己正当化といえばそうだし

長い目で見ると相手じゃない

自分の悪い癖

なんでも出来るようになりたがること

綺麗な写真を撮る頃には

きっともう今の自分には戻れないだろう

撮る気もない

というより、こんな美しくないことを撮りたくない

普通ならそうなる

きっと中島敦中原中也太宰治なんか読む気にもならない人たちなんだろう

あるいはそこに美しさとかを感じるのだろう

人生そんなものじゃないと思うけどな。