救いのない関数は人

人生体験の激しさはさほど重要ではないと思う。

さらに言えば自身の欲求、エゴイズムを追求することによる芸術も似非のまがい物のように思う。

認める力は境界線を生み出す。境界線はモーセの奇蹟のようではないと思う。もっと汚い、そう、糞尿に塗れた正解のようなものだと思う。汚れて汚れて、落ちるところまで堕ちて、それで気がつくのだ。甘やかしてきた自分を。夢を追って迫害してきた周囲を。

正解は常に自然に存在する。人が多く間違えるのは、人が中心にあり正解を生み出せると誤解していることだ。自分のやりたいこと、きっとそこに自分の存在など誰も認めてもいないのに、何かしらの存在を有るように信じ込む力、それこそが人間といわれるものの残滓のようなものだと思う。

すなわち人生体験の激しさはエゴイズムの追求にあると私は言いたいのだが、これに対して私は考える。個人の欲求を追求することが個人の幸せを満たすのか、周囲は幸せになるのか。自然は認めているのか。やりたいことをやり、やりたくないことはやらない、守るべきものは破り、認められるためのものは手に入れる、権力と知恵のアンビバレント

乱交が楽しいのだとしたらそれはきっと自分のエゴイズムではなく周囲に対する承認欲求だと思う。あるいは、生まれつき巻き込まれざるをえなかった。玉突き事故と私は考えている。存在が不確定なのと同じよう。信用など存在しないのだ。本来。

さて人がやりたいことにはどんな種類があるか。主観を排斥するためにも一度類推したい。性欲以外に何があるのだろうか、自由なフットワーク、個人の志向・宗教観・死生観が生む行動。その先に何か正解があるのだろうか。人が傷つくかどうかなど知らないままで個人の欲求を満たす先には何があるのだろう。

多くの場合外圧的に生み出された、やりたいこと、それは純度の高い鉄を生み出すために絞り出された不純物のようなものだと思う。

正しさを追求することを諦めた時、これは非常に容易に生まれ出ることを知っている。そして彼らは奴隷として幸せを忘れて生きることができる。歴史を見ても変わらない。これからもきっと自分の意思決定という欠片も信用の不在する正しさを追求するほうが、一つの正解だと思われる。これは違うことだと思う。私は、一つの正解だと思われる信じ込むというこれらの行為について非常に吐き気を感じる。速さに権威が身につくのであれば、寿命が伸びた時何を権威とするのか。嗜好だろうか。

きっとそこに正解はない。

正解はある、確かに存在するのだが、認める勇気を持たない。

おそらくどんなに見ていても、口でいうことができたとしても、体現できる人が少ない。つまりそれは死生観を持たないこと。個人という発想を無くす、欲求という夢を捨てる、排斥に排斥を重ねた先に生まれる鉛筆の先のような尖、それは折れやすいように。

何者かによって縛られる時それを気のせいや勘違いや自分の納得できるオブジェクトにする。

救いのない関数。

 

夢、夢、夢を追った後に見つかるのは不正解、不正解、不正解。

 

 

わかりやすく言うと、

自分のことを関数に見立てた時、多くの関数は価値がない。