人の魅力の正体について考えてみた。
早速だが、考えてみた、なんて書き方にもう魅力がない、と感じる。
本題に戻るが、魅力とは何だろうか。
まずは脚色力じゃあないかと思う。
それは何かというと、人の本来の姿とは異なる希望を見出すことを言う。
例えば我々は朝起きると大体通勤電車に乗る。その中は満員で、混雑している。あなたは汗をかき、スマホをいじる。隣の人に気を配りながらも、それが当たり前の所作として受け入れる。
例えばこれが朝の人の本来の姿だとしたら、魅力はこうだ。
私は宝くじに当たり、家を買うことができた。その家には専属の運転手付きの自家用車があり、それに乗り、満員電車を高速道路上から見下ろし、朝刊を読み、パンとコーヒーを食べることができる。こんな毎日が脚色になる。
他には
人は指示されないと動かない、自信のない怠惰な生物である。
それが本来の姿だとしたら、魅力的な人というのは主体的に動き、自信がある人を指す。
これはあくまでも理屈の定義だが、いわゆる魅力的とされるものの正体とは大体がそんな感じで対立的に構築されているもんじゃない?
人は自分にないものをねだり、持つ人をねたみ、持たない自分を見たがらない。
人というのは私からするとそんなふうに見えた。
だから魅力とは、集団において多くの個人が有しておらず、かつ有することに価値があるものを持つ(あるいは持っている風)ことで生じる。
小学校なら背が高いやつがモテ
中学校はイケメンと悪いやつがモテる
魅力的というのは、特定の集団の中で偏差値70以上の個人に当てはまるのである。
悪いやつも偏差値70とはなかなかに面白い統計である。
さて、話を戻すが、こんな文章を読む人間がどこにいたろう。私にとって魅力があることはやはり魅力的であり、それを追い求めたいわけなのだが、このブログが一向に読まれない(一部の記事を除き)憂いから、あー、魅力ってなんだ。と思った暇人次第である。
何事にも終わりあり。
面白くあらんことを願う布団の中