7,777円の考え

一応自分がオタクを自認するキッカケが中学2年生のころにあった。

正確な年次までは把握していないが大体そのくらいだった気がする。

ピアノを続けていたせいで音に敏感で、良い音と悪い音の聞き分けが出来た。

良い曲にはメロディラインがあって、リズムも非単調つまり考えられている、声も大事。そんな聞きグセを刺激したのが新宿の本屋で流れていたラノベのOPだった。

 

別に対して耳に残ったわけでもないはずだが、映像の滑らかさと合間ったあの感動は覚えている。邂逅10秒ほどの出来事だったが完全に虜になった。

 

女の子が壁の中で綺麗なダンスを踊っていて、ドンシャリ特有の重低音と高音の砂混じりな音質がちょうどその壁にかけられたタブレットの出力に合っていた。

 

綺麗だなーと思ってからはすぐ本を買った。

アニメも見た。

すぐ好きになり、はまっていった。

もしかすると小6の時とかだったか?

それ以来、まあ見る機会は無くなり、どうでも良いなり、興味の範疇を出ていったが、たまたま嫌な鮮烈な記憶の還元が生じた。

 

そのせいで私はあれこれ考えさせられた。

私は何をすべきなのか。

助けてもらったお礼があったんじゃないか。など

 

だから私はお金を配ろうと思った。

それがどんな意味をなすのか、考えたこともない。

とりあえず、遺された人に傷を1mmでも遺さない、減らす、そのために役立てるならと思いお金を使った。

思い立った瞬間、銀行のネットバンクを開いて、都合の良い金額を支払うことにした。

最初、500円か1000円でも払えば妥当、と思った脳は、指先が7,777と打った。

なんとなく、不幸な思い出も笑い飛ばせる方が良いから、僕はラッキーセブンを唄ってみた。

でも本当に、お金を使うことの意味を腑に落とせていなかった。

支払ってからの僕の考えはこうだ。

 

友達と食事に行った時、あの時支払った7,777円が勿体ない、でも勿体ない、は言葉として非常に失礼だし、自分のしてきたことに恥を覚えるくらい。だったら、腹落ちさせた方が良いんじゃないか。7,777円は僕の青春をかたどってくれたお礼に不十分すぎるくらい十分だったんじゃないかと。

でも、僕の貯金からあれだけの金額を減らすことに、失った気持ちを感じている自分がいて、惨めだ。

 

私はどこまで行っても二律背反どころか、汚い。意地汚いのが見えて、死ねばどうせ見えなくなるのに不思議な思い。

 

でもまあとりあえず、私は生きている。

 

集中して目の前のことに取り組んで、お金に余裕ができればそれで。

 

お金は余裕ない方が良い。幸せだから。お金があることの不幸は青天井だから。有る事無い事を入れないで良い。

 

あの7,777円についてまだ私は消化できずにいる。

もしかすると貯金が増えたり、さらに減ったらもっと落ち込んだり、そういう風にプログラムされている気がする。

 

だからこれに関して余計な詮索を入れるのは不毛で。私はとにかく歴史の当事者でありたいという気持ちも1%以上はあり、その胡散臭さにあまり恥じらいを覚えることもなければ、とりあえずは貸した金は帰ってこない理論で賄おうとおもう。

賄うって良い言葉だね。

賄いだ。そう。あれは賄いだった。