好きにすればいいんだよ、を伝えたかったです

社会に出てから3年半くらい経った。

出来事をおさらいしてみると

死んだ

死んだ

死んだ 

死んだ

死んだ

死んだ

以上です。

ところがこうして文が綴れている。なぜ?

わかりやすくすると、「死んだ」とはあくまで

可能性やパーセンテージを四捨五入して、0か1かで表現された進数みたいなものでして。

PCの限界を表す比喩みたいなアートだと思うといいと思います。

つまり死にかけて死にかけて、また死にかけた

ということだ。

 

そんな抽象的なことよーわからん(わかろうとも思わん)

といって閉じていく人が大半で、これから先を読む人はいないと思う。

 

 

 

さあ本題だ。

 

私は社会に溶け込めない。

徹底的に、無理。

なぜか。何がいけないのか。

わからないなりに何年かほどだけ考えてみた。

 

経営者が会社について毎日寝ても覚めても想うように

受験生が勉強について毎日寝ても覚めても想うように

私も、どうやったら幸せになれるんだろうな、と考えた。

 

 

結論が今出たので書きます。

多分、好きにしたらいいんだと想う。

 

 

すごく当たり前で申し訳ない。

どうしてまた、好きに生きろなのだろう。

 

好きって何?だし

生きなきゃいけない理由も要るし

でもそんなの今まで誰も定義したことないし

あくまで自分の見解に過ぎない。

 

でまあ直感に尋ねたところ

事の発端は、愛されなかったからなんじゃないかと。

 

愛されないって何かと言うと、

愛されなかった

愛してもらえなかった

愛したいけど愛されなかった

愛してるんだけど愛されなかった

愛してるけど愛してくれない

愛してるんだけど愛してはくれない

愛してるのに愛してもらえない

愛してるけど愛されない

愛してるのに愛されない

愛されるけど愛してない 

など種類が無限にある。

どうやら"愛されない"の本質を捉えるにはなかなか沈黙が金である。

 

 

でもなんか、

親に愛される

兄弟に愛される

親戚に愛される

知人に愛される

周りの人に愛される

 

世の中いろんな愛があって、

実際にどれかが欠損するっていうのは

実はないんじゃないかと私は思う。

 

つまり愛されていないと感じても、実際には愛はあって

自他共に、表現や理解不足なだけなのでは、と。

 

仕事でも自分の意見を相手にちゃんと"言ったつもり"でも

キチンと伝わらないってのはあるし、愛にだって同じことが言えそう。

 

 

人は、愛されてない"と感じる"と自信をなくす。

自信をなくすと、死にたくなる。

愛に飢え、誰かに依存する。

タバコを吸う。

未成年なのにお酒もタバコも吸うし、セックスも多くの危険性を伴いながらやることでむしろ快楽を感じたがる。etc.

それらが犯罪やアートに昇華されてゆく。

 

そういうのって結局

 

”感性が豊かすぎて周りが追いついてない”

 

って話にしといたら良いんじゃないの?

というのが、好きにしたらいい、という結論に至った過程。

 

 

論理論理言って楽しそうな生活を送る人たちに

こういう感受性の問題が起きているように見えない

 

彼らの焦点はいつも解決可能な課題だけで

様々な事情が入り混じり、複雑に絡み合った"感性"ではない

 

一時期論理的に強くなることで感受性の問題を解決しようと足掻いたが

確かな手応えの一方で、なんか違うなって気持ちの方がエラく強かった。

 

なんでかな?と思ったら

それは多分、あれなんだよ

根が右脳型だから。感性だから。

ピアノ弾かないと死ぬから

文字を書かないと死ぬから

表現がないと生き場所がないから。

こうやって勢いでバコバコとなんの脈絡もなく打つ文章に

私は陶酔できる。

なんなら今はそれが唯一の現実逃避で、

現実が現実だと認めてもらえる、平和な時間。

 

 

だからまあとりあえず、あなたにも生きてみて欲しい。

そう思える余裕を持てるようになっている。

 

感性の豊かなあなた

生きるのはつまらないけど

まあつまらないっていうのは楽しいよ。何もないっていうのは何もないからさ

死ぬってのはくだらないよきっと。ということは生きることももっとくだらないからさ

好きにすればいいんだよ。結局