人と出会い着実に年を取り死んでいく。
可能性感覚だけが「希望」に代替わりしてうまいこと生きようとさせてくれる。
創造性は可能性感覚を育む上で非常に重要であることを理解。
では、可能性感覚を利用して考えを出す。
人は記号であるとする
記号とは、個の身体や表層を覆うもの。
分子結合、水分、血液、細胞、皮膚、目、髪、骨格、身長、体重、プロポーション、鼻の形に唇の形、目の下にある黒子まで。
または服、言葉、住居、取り組み内容。
あらゆるものが記号として点在することとなる。
あくまで記号は点である。
点は他の点とつなぎあう。
つなぎあう箇所が線となる。
点と線の関係は、次元に近い。
ところでなぜ次元が存在するのか?と問われても、
今の私には想像がつかない。体を信じてみるしか方法は無い。
しかしそれも出来ていないのが現状。
形而上学の余裕さえ、今の生活には狂おしいほど遠い。
ところで線、結びつきには可能性がありそう。
あらゆる可能性がある上で、選択的に強固な線、結びつかない点と点が存在する。
それが関係。
関係は全て必ず存在するとは言えない可能性も示唆できる。
例えば水と油のように。
例えば別れた人同士のように。
繋がっているようでもそれは、繋がってはいないのかもしれない。
人の世は常に流動的。今死んだら僕の知覚は途切れる。
こうやって書いて残したものが僕となって記録されていく。
だから僕は一つの記録という存在、点であるかもしれない。
そう考えると、私が流動的に記すことに、今現時点でどのような線を生み出すかわからないとしても、生み出すことを否定する理由にはならなそうである。
だから色々と書く。
君達と付き合いたかった。
これもまた進化の一過性か。それでも今は