不適合の詳細

について考えてみたくなった。

きっかけは、キズキという学習塾を創業した安田祐輔さんという方が最近出版した、

暗闇でも走る 発達障害・うつ・ひきこもりだった僕が不登校・中退者の進学塾をつくった理由 https://www.amazon.co.jp/dp/4062210428/ref=cm_sw_r_cp_api_d0IlBb0EWWRHR

というタイトルの、ドキュメンタリみたいな本を読んだから。7時に買って、飯食って爆睡して結局40分くらいで一気に読み進めた。意志が筆を動かしたんだろうなという感情的なメッセージが多く、自分にとって共感しやすかったからか、読みやすい(ないし飛ばし読みしやすい)内容だった。

とにかくまあ今自分の中での最大の考え事といえば、

何もかも人のせいにすることなく今のありのままを受け止めた上で、さあどこへ向かいますか。ということ。

だいたいこういう思考をしている時って、自分のありのままを客観視したくないか、現実を受け入れたくないから漫然とした時間を過ごしがちだ。

とりあえず、下手なりに自分が今のテーマに至った経緯と

これからどうしていきたいのか、ないし何があると私にとって希望が溢れるのか

について考えたい。

あまり過去に浸ったって意味はないけれど(なんてったって過去を作り出すのは今の自分だから、今の自分が変われば過去の思い出だって簡単に見方や捉え所が変わる)、とりあえず今に至るまでを書き進めてみる。被害者意識の強い書き方はもうやってきたから、なるべくポジティブに。

若い頃、まあ特に幼少期からストレスを抱えやすかった。

恐らく2歳まで広島の、瀬戸内海が眺められる丘に立つ家に住んでいたらしく、その家での心地良さが奪われたと思ったからだろう。2歳から突然、自然がなくなった。東京都いう機械的な大都会に放り込まれて、かなり面食らった。

自由を許さない雰囲気が怖くて真正面から向き合うのを恐れた。

まあそんな事はどうだってよくて。。とにかく根は穏やか慎重真面目な普通の男の子だった。特徴もないし、強いてあげるなら多動的な人間だったと思う。

小学校の頃もやんちゃなガキンチョだったし。あまり罪みたいな社会的通念について覚えがなく、両親から教わることもなかった。基本的に放任主義で、何かあったら登場するっていう感じだったと思う。

劣等感は強かった。恐らく体が小さかったので、人一倍努力しないといけないという事は子供の頃から認識せざるを得なかった、のではないかと思う。

小学校4〜5年生くらいになってから、ますます同年代の男たちとの成熟度の差が出て、ませた女の子たちとの交流もなくなり(特に体が小さいので上級生の女の子にモテていたから、自分が上級生になると立場がない)だいぶ参っていたと思う。

障害を持っている男の子に暴力を振るってみたり、気に入らないことがあったらその人の上履きを隠したり、そういうことをやっては怒られ、反省しなかったのも、教育不足だと思う。

今の自分からすると普通に考えて、他人に対する思いやりがない。っていうやつ。

別にではその思い出が完全悪だとは思わない。なぜかというとやっぱりそういう行動の裏にはなんらかのストレスがあるのが人間だからだ。

理由はわからないが、とりあえず皆と比べて体が小さいせいで周囲に相手にされることがなく、同世代とのコミュニケーション不足に悩まされた。関わりに行っても、あまり楽しいと思えるような機会が得られなくて、孤独を感じていた。

友達に誕生日を祝われた思い出も、祝われてありがとう、と言った思い出もない。

友達の家に行ってゲームをした思い出はある、が、なんかどことなく疎外感を感じていた。3人とか4人とかで遊んでいると、やたらめったら自分が省かれているような感じがした。だから今、僕は2人でのコミュニケーションが得意だ。大人になったのである程度耐性は付いたものの、いまだに3人以上の空間にいると、ましてそれが気のおけない関係者でなければ、閉口してしまう。

口では、人と親密なコミュニケーションが取れなくなるから、とか言っているが、本音は出来ないので自己防衛しているだけだ。良いとは思う。そういう人間なのだ。

得意不得意があっていいじゃないか。だってまず、3人もいたら3人ぶんの意識配分をしないといけなくて、それが恐らく社交性の本質なのだと思うけど、僕はそういうことをやってこなかったものだから、まじで助けられないと死ぬ。何も喋れなくなる。

二人だと特に、自分のすきに話せるし、気のおけない関係じゃないと二人でいることって不可能なので、いいことだとは思う。ただ、親密な関係だけじゃやっぱりバランスがおかしいのもわかる。

僕とは逆に、友達はたくさんいるけれど、親密な関係を作るのが苦手な人もいる。

僕はこういう人がすきだ。僕にはないコミュニケーションスキルを持っていて、でもって僕の話を親身に二人でいるとき聞いてくれる。大勢の人がいるところでは虚勢を張って良い人を演じて、僕はそういう疲れを、癒して(というおこがましい発想ではないが、、)あげれる?自分の本音をさらけ出せない人と、僕は良い関係性を持ってきた。

だいたい女性だ。女性的な人でないと、1:多のコミュニケーションが得意な人ってあまりいないし。男性って基本、常々思うけど、孤独だ。

野生動物に似ている。子供を作ったら追い出され、子供が出来ると愛情が離れ、って具合に基本友達っていない。

しっかり教育された人には、こういう悩みって一切無いらしい。

せいぜい、男子校育ちで女子との関係が薄いとか、もっとお金が欲しいとか、もんの凄く人間的なことで苦悩(それさえも理性をフルコントロールして、悩まない)しているけれど、結局すぐ解決策を見出して僕の目の前から姿を消していく。。

こういう人間関係は、寂しい。きっと自分も、しっかり教育された側にいたかったのだ。ただ、やっぱり教育は不足していたし、他者への愛情もなかった。努力はした方だと思うけど、才能が如何せん足りず、東大京大生と比べるとどうしてもペンの力では勝てそうにない。本当なら、勉強は割と得意分野のはず。だけれども、勉強を全然しなかったので(というか、したつもりだったけど、全体と比べると全然してなかった。しなくても要領よくて点取れてしまっていたから、うまいこと忘れてた気がする)

ウサギとカメで言うところの、ウサギである。気づいたらすばしっこく走るための脚力が減り、根性も減った。

大人になるにつれ、これらの基礎能力の差で、たくさん落ち込んだ。

落ち込んだはいいが、それは僕にはもはやどうすることもできないことなので、

改めて東大京大に入試を受けて合格して自信を持つのか(ちょびっとしか持てなさそうだけど、価値はありそうだ。でも、物凄く大変そうだ。何しろ中学受験算数が出来ることが結局大学受験の合格に一番寄与するってわかっているのだから、、中学までが一番勉強していなかったので、取り返しが大変すぎる。結局、特に数学・算数なのだが、パターンとして覚えようとすると、発想が減る。それでも東大には入れるけど、また別の悩みが出てきそうだ。つまりは、閃く力のなさ。これまた多分どうしようもない。多くの人が経験している悩みだと勝手に思ったりする)

医学部入試も悪くないなって思う。まあとにかく、私には日常生活において上手に振る舞うことが、一定他者よりは出来るものの、生まれながらにサラブレッド、勉強は出来て当然の家系、追加オプションで容姿とか、コミュニケーション能力とか、何らかも更にそこそことなってくるともう自分には到底敵わないなって。現実を理解する。

こうやって、私には現実を踏まえて〜って生き方の時間が流れた。

ある意味で、刹那的で動物的な生き方だと思う。脳みその多分ほとんどの機能を使いこなしていないし(multipleかどうかって意味で。とても一本の線のような実直な使い方かつ使いこなせてない下手さだ)

使いこなすための知恵がない。知恵ばかりは、生まれた家系を恨むくらいしか出来ない。

ポジティブに生きるとか、そう言うのってはっきり言って努力だ。苦しい思いをしてこなかったから、ポジティブに捉えようとしない。のかもしれない。ないし、嫌な思いをしなくても生きていけるような生き方をしてきたのかもしれない。私にはそれが出来ない。もちろん社会情勢が、両親の頃とは異なっており、年金の金利も落ち、社会保険料も爆上がり、若者の人口は10年前の半分以下になり、40才以降の甘い蜜を吸ってきた大人たちが頑張っている世の中じゃ、なかなか若者に陽の目が見られないのも恨みっこなしだ。とりま、産んでくれてありがとう。

だらだら書いたけど、とにかく私にはまとめると以下のようなコンプレックスがある

・大勢の人がいる場における自立が苦手

例)

- 3人以上の空間での自分の立ち振る舞いがわからない

 - 知らない人には嫌われていると感じてしまう

 - 田舎生まれなので、良くも悪くも温情派・隣の人を観察するのは当たり前と思い込んでいるけれど、一期一会の都会だとそうはいかない。皆、冷たい。そのギャップに苦しむ

・現実的で理性のコントールが苦手なので、自分の身体能力を他と比較しすぎる(比較するだけじゃ変わらないのに)

大別するときっとこの二つだろう。特に勉強は得意なのに結果が伴っていなかったから、悲しい。

ポジティブに書こうと思ったが、書けなかった。

とりあえず、自己観察は出来た。次は、自分をどうしてあげたいか、だ。

これが難しいのだ。

 

 

 

自分をどうしたいかについて

私はあまり自分を自己変革する意識にかられない。

動物的なので、その日暮らし衝動的な判断しかできない。

大人になれば、理性的に物事を捉えることができるかもしれないが、何となくそれは今までの自分の快楽を捨てよと言われているような気がして、子供らしさが惜しい。

子供らしさは、ずっと抱えていたいから。また、これなら納得がいく、と言う理性イメージが、無い。これが最も考えるべきテーマかもしれない。

自分でも納得のいく、自分の育て方について、一考してみたいと思う。

自分が苦手なのは、理性でもってして自分のやりたいことをやるが、相手の感情は無視した個人プレー。無論そんな悪者は世の中にはいないし、大抵の場合それで許されてきたのだから、これは個人的な解釈だ。そう捉えると、不愉快になるので、やめようと思う。

いいなと思う人、どうしようもなくクズだけれど、心には優しさがある。

よほど人間味があって、信用したくなる。私はこうありたい。

自分の醜態を晒すことを恐れず、碌にプライドも抱かず(これがすごい。この例に挙げた現実の人物は職場の同僚(つっても3歳くらい上だが)だが、県内一の学校を出て一浪で京大に入り(私には一浪する勇気がなかったので。。今思うと入れる自信かなりあるのだけれど。。)今に至るまでかなり自分の生い立ちと格闘してきた人だ。こんな掃き溜めで失礼にあたる行為はしたくないので、その人に関する詳細な内容はまた別の機会に。)まあ、それはそれで誰かを傷つけるのだけれど、もう仕方ないじゃん、って割り切っているのが素敵だ。好き嫌いを相手に委ねるのが良い。

あと、苦手な人は、サブカル系女子だ。自分の世界を持って、相手の意見を何だって素直に聞いているように見せて、自分の脳内で勝手に都合よく解釈して、お花畑に浸る人たちだ。嫌いな理由は単純に、クッセェからだ。子供産んでさっさと素敵な女性になれ。それまでのお前らの行為は、それで許してやる。子供を産むのが遅いのも、サブカル系女子の特徴だ。きっと、やりたいことをやりなさい、と言われながら育ったに違いない(完全無敵のど偏見)なぜ嫌いかと言われると、本当に苦しんだ覚えがなさそうだからだ。とりあえず、一定以上の容姿があれば、女性は肉体的に存在するだけで価値があるから。サブカル系に浸るのはだいたいこの"一定以上の容姿"があるからなれる、フィルターがあるので(そのフィルターももしかすると緩くなってきたのかもしれない。貴族階級の崩壊?情報ネットワークの発展って本当に、偏見や情報の偏差を解消するのに寄与しているな。ブスだってサブカルになれる。俺だって神になれる)

悲劇の女王様を気取りたい、クソゴミども、と言う風に思ってしまう。

大体これも自分が恵まれなかったせいで、劣等感に苛まれているんだと思う。

もうちょっとちやほやされたかったね。今もこれは大きなコンプレックスだ。

これからの原動力にどうしていくのかが難しい。が

これくらい吐き出したら、自分のありたい理性コントロールの仕方が見えてくるだろうか、いまいち微妙だ。

学術本に手を出したら手っ取り早いかもしれないけど、胸に手をあてて考えたい。

ここまで書いて、ちょっと自分でも勘違いしていたけど、

このチャプターのテーマは、自分を成長させる、と言う疲れる行為ではなくて、むしろ疲れさせないための大人になる方法について考えているのだった。

ゲームをしてると、現実逃避ができて楽だ。不登校の人間も大体ゲームやってる。

ゲーム好きな人って、現実にコンプレックスを抱いているから。

現実のコンプレックスは取り除きたいか。面倒なので良い。

30才になった時何が幸せか。難しい。現実を踏まえて、

家族が欲しい。

これか。

自分一人で頑張るにはもう体力が残っていないから、

誰かのために生きることで、何かしら自分の生きる意味に問いただす時間を設けてみたい。そのためには大切な何かと交わらないといけない。

結婚したり、お金を稼いだり、まあでも、そう言う悩みは割と解決できそうだ。

チャチャっと結婚してみるのも、悪くない。

そうと決まれば、それに向かって行動だ。ゆっくりと。

なんか、ちょっとずつ落ち着いてきた気がするぞ。