病院と情緒

駄文

昨日お昼頃、今週ずっと楽しみにしていた診察に行ってきた。

診察が楽しみっていう時点でちょっと変かもしれないけれど、それくらい他の関心ごとへの効用感が薄れてきていたので、仕方ない。

楽しみの理由は、今の悩みを打ち明けて、解決策を考えてくれると期待していたからだ。

実際、行ってみて理想と違う部分はあれど、概ね現在の病院の提供できる機能としては十分だろう、と言う満足感を得た。

一方で、病院に対する腑に落ちない点と、個人に対するそれがそれぞれあった。

1個目、医師の、社会復帰を是として勧進してくる口ぶり。

例えば、会社を辞めてプラプラしたいんです、って言ったとする

確かに自分が言われる立場だったとしても、特に初対面で仕事としてなれていたとしても?(適性があればそんな事はない)

いいと思う、と気軽に言えない。僕は言うけど。。。

家族も、医者も、親しい人を除けば皆、僕には社会復帰を勧めてくれる。

僕が好きな人は、そんな事はしないだろう。臨死体験とか、悠久を過ごすとか

そういう言葉の方が僕は自分にしっくりくる。面舵は自分で切らないと行けない。

 

情緒というのは誰かに左右されるためのものではない

病院だってあくまで一つのツールでしかなくて、そこに行けば全てが解決するという期待は、ある種の依存だから、直さないといけない。

これまで僕は、周りに期待ばかりして自分では何もやろうとしなかった。今回の件だってそうだ。今もこうして文章に書くことによって、理性と感情の情緒を整えようとしている。

 

なぜか

信条があるから。

具体的に存在するわけではなく、信条(思考・判断のフィルター)という概念についてなんとなく信仰するようになった。

出来る事は少ないけれど、重かった肩が軽くなった。

誰かのせい、これは良い悪い、与えられる前提に立って何かを判断するのはとても気持ち良い。僕はそれに慣れ親しんでしまっていたようだ。

別にそれでも悪い事じゃない。ただ、生きてくうちにどうやったって困難にぶち当たるのだ。その時の対処法を覚えてない。不満をたらすのが人生の処方箋でいいのか?という。

そんな事はなかった。なんだかんだで、誰かを頼るのも、自分を克己させるのも

努力だ

その人なりに出来る努力を一生懸命やっているから、誰かがあれこれ清く正しくうるさいことを言わなくたって良い

人間の経験値や終着点なんか出生に左右されるものだから

何かを正しいとか間違いとか判断するって難しい

だってこの世の中に正解なんてないから

何でもかんでも事実としてありのままに受け止めるのが一番人間的であって、情緒的だ

ただ別の見方をした時、社会的な判断力をもって生まれた人が羨ましい。

きっと落ち込んだりしても対処法を見出せるのだから。見出せない人なんていない。

ただ、ありのまま観察することとか、周囲に邪魔されたくないこととか、

自分の中に何かあったのかくらいは考えてみても良い。

少し疲れた

 

自分のことだけに物事の思考が集中しているのは好きじゃないけれど

もう少し自分のことを大切にしてみたら、結果的に誰かを大切にすることが出来るんじゃないか。

気負い過ぎないで行こう