「私は断じて否定を続ける」

S・カルマ氏は抗弁を繰り返す。

「どんな清美であれ、殊勝な振る舞いであれ、化けの皮一枚剥げば単なる馬鹿の露呈すること。どんなに穢らわしいものであってもその実は審美たり得ること。さすればこの両者の矛盾はいかようにして合間見えるだろうか。世の調和、不調和はどこから起因するだろうか。ともすれば世の中には穢らわしさを美徳として美しさを振る舞う愚か者の多いこと。そしてそれを芸術的に、などと論うものもいればこの世は混沌の夜舞踏会だ」

地下牢に響き渡る雑音が、眠っていた看守を1人起こす。看守は泥と土で出来ていたから、如何様にして解釈出来なかった。外は乱層雲に囲まれている。雨は降らない。地面には俯き加減な人々の顔が浮かび上がっている。

時折上を向く人は狂人だろう。

「では、得てして美を解釈しないものというのは、どうすれば救われるだろうか。私が考えるには堕落の底を味わい尽くすことだろう。堕落には高いも低いもない。つまりは最小限の堕落を理解すればそれで良いのである。最大限の至福も理解すればそれで良いのであって、常に中庸が最大の美徳であるとされる。なぜならその傾きが強くなるにつれて、人は人糞を喜んで食いはじめ、ここから文明とかいうものが発達してきたからだ。諸悪の根源と呼べるようなことはどんな馬鹿者でも分かるだろう」

「時に君には、美しいと呼べるものをあるか?それは何だ。何でもいい、例えば食べたくなる様な女か。なぜそれを美しいと思う。それはお前の解釈が、お前を美しい状態に昇華させている。お前の現実をお前の美しいと感じるものに頼るな。お前はお前の現実をでしか生きられないのを分かったように口をきくな。人を知るには人を観察せよ、観察した後に扱い方は己の美に頷く。それがお前だけの美だ」

監獄の隣には聖職者がいた。少女暴行罪で20年の懲役を受けた。はじまり、彼が何を言っているか理解する気にも及ばなくとも、次第に耳が壁以外に向けられずにはいなくなるにつれ、自身の曖昧さと竦むような恐ろしさを身を屈めて感じるようになった。

監獄には他にも何名かが居た。各々が個人の解釈でSの暴言を聞き流している。これが、この場における唯一の娯楽である。現実を生きた人間にとっては、理性を失った人間の声を聴くことが理性を取り戻す肥料となっていた。それは、'私は愚かであるからお前のような真似はできない'という、一見可憐に見えて綺麗事の妄言とは対をなし、'私は天才であるからお前のような真似をできない'と言う、実際の現実を生きる理性自身から解放してくれるのである。

真の現実とはさほど肉体に優しいものであろうか。傷を負うことが美徳だと言う人間と、傷を負わずに美しくあり続けることでどちらに重きを置こう。

「時に支え合いだが、」

S氏は続く。

「支えると言うことは振り子のような関係性を保とうと言うことだ。理性を保つにはこの振り子から解き放たれるような瞬間を望ましく思う。とどのつまりが振り子は人間動物性の違和感を払いのけるための肉体的接触に他ならない。」

「肉体的接触とは、自身に対する自信の喪失と、その回帰、瞬間的快楽への没入のことに他ならない。それはなにも身体に限られる訳ではない。例えば脳の報酬系を刺激し続けることでだって彼らは幸せだろう。夢を見させてあげることの出来るようになれば彼らのお役は御免であるから。振り子のような存在には他者との干渉を絶対に拒まないといけない原理が有る。これにより、その世界は私のもので有る、とidentifyされる訳だ。そしてこのidentifyによるidentityこそが芸術の真価になる。どの五感を研ぎ澄まそうともidentifyにはidentityへの昇華しか残らないのだ。芸術とはそういうもので、私もそう。美しいかどうかは感性のレベルだから、美しいと感じないものに人は魅力を感じないのである。動物性本能の確からしさも此処にある。下らない行動原理学者などはこのようにして要素分解を行い、徹底した棄却を続けるが、それに何の意味があるだろう。人間の意思であり愚かさの化身、側から見れば狂気の沙汰だが、それこそが我々の現実。真実たらしめるものではなかろうか。逆に…」

「身を任せたらこうなったと言う風な発言には人間模様が描かれている。とはやはりこの振り子から分かるわけで、理性とは人間の対をなす存在、自虐だ。だから我々人間は自虐を好まない。あえて人間的な振る舞いを美しいと思い、そこに芸術の美を感ずる。理性と感性の揺らぎには、」

稜線を空が跨いで目が覚める。もう一度眠りにつく。