2015/3/6 16:31 幸福論

幸せは、感じ・感じられるものであり、自分と他の外的要因の間で生じるもの。

今の自分は幸せか?と問いてみる。

可憐で優れた彼女が側にいて、仕事もなんなくこなせる。

将来は彼女と結婚し、お金にもさほど困らない、幸せな家庭を築くこともできる。

ここで幸せと一つ存在を容認することはできるのだが、他の人がどうなのかはわからないが、自分に関しては、苦しみが多々ある。それは幸せの大きさに比例したものであるような気もする。

直近の苦しみといえば、彼女の過去である。昨年末それが自分に移った。そのこと自体も苦しいことだが、何が苦しいのか自分でもうまく表現できる自信はないが、つまり生で行為を行ったこと、どれくらい関係が続いたのかわからない(彼女は1日だけと言っていたがそのことを信じられない)こと、相手の男がいかにも遊んでいそうで40歳を超えているということ、そういった節操、貞操観念的な部分に対しかなり苦しみを感じている。

容認することは難しい。

こんな書き方では実は本質は捉えられていないのかもしれないが、自分にはこういう現象だったように感じている。

無論、彼女のいいところをまずは記そう。

彼女は、非常に可愛い。この世で最も美しいと思う。

頭も良い。本人は自分のことを心の底からバカと思っている部分があるが、実際は非常に頭が良い。おそらく上の一件に関しても本来は、本質を知りたいだとか、そういう頭の良さから生じた出来事で、無論そのやり方や生々しさは間違いなく苦しみを感じていい部分であるとは思うが、そういった性質ゆえに起こしたこと、さらに言えば思春期特有の過ちとでも片付けてしまいたい。

彼女はおそらく、本当に愛した人としかそういうことを行わない。僕と初めて付き合った高校生の頃は、あれは付き合ったと言えるほどのものでもなかったくらい、浅かった。

そういった意味で、良い意味として述べれば、自分はそのような高尚な女性に認められ、求めれば与えられるような関係にあるのだ。

会話が容易に成立することも嬉しい。まあ何より、好きな理由はその程度でもよいような気がする。兎にも角にも愛していることに違いはないのだ。

だが、なぜ愛し続けるためにこのように過去のことだけで苦しみ続けているのだろうか

苦しまなければならないと書きたくなってしまうあたり、正直なところ被害者意識が強いような気もする。前を向けばよいのだろうか。これから起きる幸せなことのみを予想していればいいのだろうか。自分は幸せになりたくないのだろうか?節々に思うが、幸せになる権利が自分にあるのだろうかなどと馬鹿げた考えをよくしてしまう。

 

 

告白した時の「この人でなきゃ」という気持ちを忘れないこと。

過去の人に負けないくらい彼女を大切にすること。

 

この二つを成すこと。