論理と情熱の話の続き

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論理とは

成功確率を上げるための、いわゆる"合理的"な判断だと思う

例えば(これは日本に限った話にした方がより現実味が増すので)とても頭が良くて、東大に入れるような人物が、東大に入ることなく工場でネジの点検を行う仕事に就いたとしたら、数年後にそれぞれの選択の差異がどれほどのものになるだろうか

ある社会学者からすれば"環境は人を縛る"のは事実であり、フィールドワーク(社会学者本人がホームレスになり、数ヶ月後に環境を変えることができるかどうかの実験。結果、貧乏を脱することが出来なかった)では明らかにそれが現れていた。

海外に絞って仕舞えばきっと才能を生かす様々な方法論が、特にアメリカにはあったであろうが、自分は日本に生まれ、日本に育ったので、その観点からこの論理というものを展開しているが

つまり論理とはこのように

時間軸において自分の最大能力をもってしてとるべき最も利益の大きな選択をとることである

東大に入れるが、才能の無い音楽に酔いしれて、音楽の道に進んだとすれば、それはその時点では情熱を選択したと言える

情熱の良いところは、それまでの結果を清算することができることだ

情熱には、新たな論理を生み出すことの出来る可能性が秘められている

人は情熱に駆られた行為を連続的に行うべきであるが、それは常に論理とのバランスを弁えた上で行われるべきでもある。

 

林を例にとってみる。

特に論理的に考える脳の無いまま無名の高校に入学し、15歳になってようやく論理の大事さに気付き、勉強するようになった。結果、動き出すのが遅かったものの、それにしては高い成果を出すことが出来ていたので、要領の悪いなりに上位校に入学した。大学は、本当なら情報系に行きたかった。今思えば、情報より理論物理や生物の方が自分には性に合っていたような気もするが、その時点では本来傾くべき情熱はそこにあった。しかし、前述の通り、あまりに論理が足りなかったので、就活に有利な有名大学に入るまでに終わってしまった。

ここで一つ考えられるお題は、

とりあえずネームバリューに肖って東大に入るのか(論理的正解)、やりたいことができる芸術系の学校に入学するのか(情熱的正解)、というのと同じである。

皆さんはどちらを選ぶだろう。ちなみに、論理と情熱のどちらを選ぶかは、日々この瞬間に変えることができるのでチャンスだ。

 

そして、林は論理的正解を選んだ。それはやはり、自分がなにより論理的正解の行く末を見ることが無かったからだ。

だからもし、僕が中学までずっと成績1番で、勉学や芸術の範囲なら、出来ることなんだってあるんであれば、この道を選ぶことはなかったであろう。でも、そのための努力もしなかった。

人によっては、僕と同じ環境下でも高校入学後に情熱を選択して、やや無謀と言わざるを得ない選択を行うことができる人もいるが。

まあただ、往々にして言えるのは

論理に従う人間には人間的な魅力が薄く

情熱に従う人間には人間的な魅力がある

ということだ

そして

論理に従った人間ほど失敗と偏りが少なく

情熱に従った人間ほど成功とバランスが無い

常に両者はアンビバレントな関係で

誰が何であろうと自分の好きに生きれば良いのである、という話だ

 

今自分は、論理に従って生きているがいつまでやりたいのかわからないし

明日辞めるのかもしれないし

でもそんな突飛な生き方をするような気もしない

そしてなにより、論理と情熱の選択は

最終的にその人にとって最も適切な量に落ち着く

自分でも、あれ、自分って意外と大胆なんだな、なんて思うこともあると思うが

それが適切なのである。

自分にとっては当たり前の選択であっても、他人から見て異常なのであれば、それは十分情熱に従った、と言っても良いだろう。