23年間生きたなりのアンチテーゼを書いてみた

asyncの写真を見て思い出した

その感情を克明に思い出せたのは紛れもなく

自分のありのままに自信を持たせてもらったからなのだが

自分は

艶かしい写真が嫌いだ

嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで嫌で嫌で仕方がない

https://encrypted-tbn1.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQLpJZaV-gnggB46PSy0SKsVJZHgdK3HVcTwsdaTEkhqCiHgXKmvBJc0jSdXg

 

嫌いとはつまり自分が弱いってことだ

嫌なものは大体自分に嫌な思いをさせるものだから、避けるために感じる自己防衛システムである

 

逆にさ、そういうものを愛でるものがいる

美しいものなんか存在しないのになんで美しいものを作りたがるのか、否

美しいから追い求めたくなる

それすなわち強い自己肯定によるものである

それが自分には出来ないからこうやってぶつぶつといつまでもゴミを増やしてるんだ!

自己肯定が是が非かという話では

残念ながら圧倒的な血縁や遺伝子、生物の逆らえない性が切ってはならないのだ

それは自分の経験

 

勝ちたくても勝てないこともあるんだということ

要するに中二病なんだよ、僕は

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/中二病

 

中二病に当てはまらないものもいる

それつまり背伸びしなくとも出来る人

あるいは出来ないがしたいとも思わない人

 

自分は完全な中二病

いまも夢焦がれてバカを繰り返している

 

高校の頃から強く思った

自分より明らかに潜在能力は高いのに

やる気がなかったりバカだったりで徐々に自分に追い抜かれて行く存在を死ぬほど見て来た

そんな人たちに背を向けて前を歩く自分に

自分は誇りなんかではなくて

情けなさしか感じられなかったよ

 

 

自分に自信を持つということは

中二病の自分と克己心をもってして立ち向かい続けることですり減らした結果気付く着地点のことでしかなく…気づいたら同じようなセリフを中学生の頃から変わらず言っていることに、今気がついてしまった

 

そうして人間の、個人の、出来る出来ないの猛烈な差異にもがき苦しむことをやめ、然るべき場所に咲く花はさぞ美しいことだろう

でも自分には咲いた瞬間に生きる意味全てを投げ打ってしまったようにも感じられるのだ

 

所詮のところこの話は、かっこつけるのが上手くなっただけの、器用に生きることが出来ただけの、背の低い男らしさもない無芸な男のあわれな豚の声

 

本当にそうなんだろうか人生の差し掛かり地点に来て思うけど変えられないものの多くがあるなかで変えられる自分は奇跡なんではないだろうかそれは選民思想によるもの

ださいけど、その先にこんな比較優位の話を捨てた自分の愛を見出せるだろうか

見出したいと思えるんだろうか

自分をものさしにした生き方を今からでもやり直せるんだろうか