なぜ文字を連ねるのかということ

文字を連ねることは、こうやってブログに思いを書くこともそうだし、紙でできた日記帳にボールペンやシャーペンや、鉛筆やらで書いては消して、気に入った文章を作り上げようとすることだと思っているけれど。なんでそんなことをするのか文字にしたことはなかった。人に話すことは多々あるけど。

そういえば私は、文字には人知れぬこだわりがある。言葉は言の端なんて言われたりもするように、文字には何かを伝えたいという情熱の媒介者のような香りがするのである。

なので多分、ここで大事にすべきこととしては、何を伝えたいのか、どのように伝えたいのかの二種類に分類されるんだと思う、それが多分コミュニケーションといわれるもの。

念のため理論武装しておくと、相手にどう伝えたらいいか、みたいな相手の気持ちを汲み取って言葉を選ぶことは、それはそれで大事ではあるけれど、上の二つがないと成り立たない高次元な工夫なので、根本的に重要ではないと思うのである。

本来人が、文字を連ねるにあたり、本当に注力すべきものというのは、自分の中にどんな思いがあるかに集約されるはず。

では、題目に書いた、なぜ文字を連ねるのかということだけど、なんで伝えたいことがあるのかとか、わざわざこうして電子媒体に指を上下左右に揺らしながら頭を使っているのかとか、その源泉みたいなものはどこに、なんであるんだろうか、というのが今日の本題である。

つまるところ、デザインとアートの違いみたいなものかと思っていて、デザインはコミュニケーションの向上が目的だけど、アートは個々人の寂しさを払拭するために行われる行為だからだ。

アートのくだりは、東京藝術大学のHPのどこかに、なんかの学長が偉そげにそんなことを書いていたような気がする。

僕個人としてもその考え方は芯を食っている気がして、結局学校で教えられる文法とか、1スライド1メッセージとかっていうのは、デザイン的な発想でしかなくて、本来の目的は何かを伝えたい、その情熱の置き所だと思うのだ。

だから僕は、いいたいことを丁寧に伝えようとか、まったく考えない。たしかにそれって努力によって培うべき項目なのかもしれないけれど、大学に入学したあたりから完全にやる気が失せた。

目的意識が微塵も持てなかったから。

それよりも、どうしてもこれを伝えたいのだ、とか、誰かにわかって欲しいのだ、といった心の叫びを作っていくことの方が、断然大切なことのように思ったから。

なのでこうして文字を連ねるというのは、ある種僕の目的を果たしているのだ。

今この瞬間に生きることと、自分の審美眼を信じて目の前の事実、瞬間瞬間に現れる物事を適切に見続けて、それがどんなに苦々しいことであろうと死ぬまでやり続けて、不満は不満であると、伝えることが文字を連ねるということだと思うのだ。

なぜ不満なのかって?世の中は自分の思い通りにいかないからさ。君1人にできることは今現在73億分の1の力まで落ちているよ。宝くじより思い通りにいかないだろうね。なんでそんなことに期待をする?

それよりは、不満を不満として、丁寧に綴った方が、人それぞれが感じざるを得ないはずの、生まれ持った寂しさみたいなものを、万全と表現できるものだとは思いませんか。