自分のやり方を変えられず

正しいかもわからないまま

側からすれば全然間違いな行為を

平気でやってのける

疲弊する姿を

誰にも慰めさせてくれはしないような

そういう孤独さは勘違いだ

誰しもが寂しさの上で戦っているうえで

誰かの寂しさをそっと感じ取ってあげたりとか

助けになりたいとか

孤独の一方通行者は感じ取れないのだから

社会から道を踏み外してどんどんと自己愛だけに耽るようになって、過ちを繰り返すのだろう

悪いことを繰り返すのだろう

毒を吸い、蜜を吸い続けるのだろう

終わりなき無限の負のループから逃れられないのだろう

まずは向上心を捨てよう

立ち直ることはそれで開始される

吐いてくれて大丈夫。

電話でもなんでも、してくれれば良かったのに

毒・解毒

嫌な記憶

人間というのはやはり緊張するものだ

緊張は自分に対する要求水準の高さであるが

それにそぐわない環境を提供されてしまえば

緊張したこっちの身としては落胆とか愕然になる

気持ち悪いものは気持ち悪いとやはり身体が言う

それをわかっていなかった。

わかっていなかったのは何も悪くないんだが、

今はとにかくその毒を吐きたくて、吐けなくて気持ちが悪い。

吐きたい。飲み込みたくない。記憶に残したくない。

ゲロを食べる方がまだマシだったかもしれない

すごいリフレーミングすると、いいものに出会うことを期待するチャンスかもしれない

生きるということ

死にたくなると、生きることが分からない

生きるってなんだ?認知・感じる・理解する・喋る

いろんなものが価値として存在するはず

それがなぜだか今は違う

なぜか?

性質とは。目立つこと、良いことなのだろうか。

目立たなくても、良い人がいればそれが一番じゃないだろうか。

なんか、差別が嫌いだ。戦争も諍いも。

でもとかなんとか言いながら、自分は諍いを起こす。子供な部分だってある。

生きることを真剣に悩んだところで、答えが出るとは思えないのである。

なぜなら、今生きているのだから。

悩むのだとすればそれは、死ぬことが完了した後にすれば良いはずだ。

悩みは、分からないことからくるから。死んだら、生きるってなんだったか、わかるだろう?

そういうわけで、私には相変わらず戦いとは無縁の世界にいたいって思っている。

し、それが一番だって心が叫びたがっている。

調和だとか平穏だとか、そういうものが欲しいんだ。

それは多分、諍いや戦争の意味を味わったことがあるから。

別にわざわざ戦争に行けとか、そういう話じゃない。

これ以上味わう必要がないって思うからだ。

それは危機管理能力といって。知らない人は知らなくても良い気質みたいなもの。

島国でのんびり過ごす人生がちょうど良いではないだろうか。

楽して生きて何が悪いだろう。誰にとって悪いだろう。それは自分にとって大切なことだろうか。そうでもないだろう。

楽せず苦しんで一生懸命生きるのが人生と決めたのは誰だろう。

自分が辛いからって人にそれを押し付ける人は何なのだろう。

才能だけで幸も不幸もすいも甘いも味わっているような人のことが嫌いだ。

能力がないからこそ死ぬほど自信を持って努力したのに、それを認められないってのは甘やかされだというんだろうか。そういう、価値観の話とか。

もうしてない。相手も居ないから、することもないんだろうな。

生きることってしんどい。そんなのはわかっているし、わかって居ながら毎日噛み締めていると思う。ただ、噛み締めすぎて死ぬような思いをしたってことだってわかって欲しい。耳が聞こえなくなったってご飯は美味しい。目が悪くなったってお金はある。

広島が負けてイライラするって思ってればそれでも生きてるってことになるだろう。

勝てば官軍なのはこの世の真理だろうから、考えても仕方のないことだよ。

自分が自分らしくある方がよほど生きることの重要性じゃないか。

誰に言っているんだろうこんな話を。まあ、理解してくれるようなしてくれないような。現実は甘くないって言ってくる人がきっとほとんどだろうと思う。

不幸に飲み込まれないように頑張りましょう

自分からいくら逃げても自分が自分を追いかけてくる

鏡の前に立って自分と対話をする

自分が好きだったものが甦ってくる

有名になりたい

それは覆せない事実らしい

だから、

オーストリアに行ったって

今の会社に戻ったって

有名にはならないし、有名になる、には

ちやほやされるを内包する

鏡の前に立てば嘘がつけなくなる

自分にできること・苦手なこと、できないことが否定できない形で目に見える

だからどうあがいても

やりたいことはやる。そのための休職期間

絵を描くのは好きではないし

好きなのは目的があるからで絵を描くことそのもの音を鳴らすことそのものに価値がないと芸術は不思議だ

皆芸術家なのに形が無いなんて

目の前の生存競争に邪魔されて自分のことで手一杯って何のために生きてるか、分からんね。

他人のために忙殺されるより自分のために死ね

人には人の情緒があり

心はなんですかね

学んできましたか

家族に幼い頃教わった

芸術にも鮮度

瞬間のフレーミングを永遠に

そういう感覚を争うことに何も意味無いし。

自分の大切なものを守れよ。

守れないものは守らなくていいのに

知ったような口聞いて大人のふりをする自分にはさよなら

情緒のことを

人には与えられた感性がありそれに従うというのが本来のあるべき姿であるとは

時々確かにと思い出したりするのであるが

それを維持するためには現実をあまりに真面目に見過ぎるのもどうかということである

現実というのはたいていにして往往にして自分には関係もなしに人全体の流れとして揺らいでいる大海のようなものであって

目の前の現実というのはその海の中でも自分が乗り越えなければならない波だとか、温かさだとか、生態系だとか、そういうものがあるわけなので

あまり大きく物事を考えてしまう、捉えてしまうのは、いささか目の前の現実を無視しているのと同じで、不健康極まりないのではないか、とも思う。

では、私はこれからどうしたらいいんだろう

早稲田大学に入ってナガセやベンチャー独立行政法人と回って

大企業に入ったはいいけど

そこには現実しかなくて、自分にとっての泳ぐべき、生まれたはずの生態系は存在していないらしい

少なくとも自分の中に違和感として唯一残されているのがそれくらいらしい

 

人についても同じ事が言える

大切にしたいと思ったところで

うまくいかないのは自分の中に自分らしさを殺している自分が強く旗を振り回しているから

そしてその旗を持とうと決めているのはまぎれもない自分自身であるから。

そしてそんな事が理解されないことに苦しむのはやはり辛い

だから、こんな弱さを味あわないためにも

何かしら今後の施策を打っておかなければならない

今この瞬間

だから失敗は恐れない

忘れることも許さない

やりたいことをやる

やりたいように生きる

苦しいを生み出さない。

苦しいは辛い

大切にしているのと行動の不一致はいつになれば切り替わる?

一生懸命苦労している

情緒はどこ

いつかこの文章だって俺に慈しみの念を灯してくれるって信じている