羨ましい

要は感覚と直観

私は感覚的でありたい

というお話

ユングが提唱した人間の活動分類(タイプ論)は以下を参考

- 性格タイプ別 天職の探し方・適職の見つけ方 & 転職サイト比較

 

天才と馬鹿は紙一重

よく言う

天才肌と言われる

馬鹿とも言われる

もともと馬鹿だった

天才とは生まれながらにして何かしらの天性を持つ(例えば体が相対的に大きいとか、可愛いとか)と考えていたが

何を天才かそうでないかの境界線とするかは

割と定義されていないような気がする

卓越したもの、と曖昧にされがち

卓越っていうのは相対的優位なこと

誰かを神様だと思い込んだりするのは

卓越性を感じているからだろう。

人は誰しも神様が欲しい

歴史には宗教が紐付いている

憧れを追い続け自分を鼓舞する

生きる活力は実は自分一人では生み出せない

生み出せると思ってた

生み出せたが

それは孤独の象徴

孤独を曝け出すことが誰かにとっての幸福になったり

まあそんなことも、卓越、が無い人は出来ないけど

追いかけ続けるものが何か

人による

卓越したいものがその人の夢だ

無いものをねだるのが自分だから。

当たり前をねだる人もいるし

優秀をねだる人も

賢さをねだる人

清らかさを欲する人

永遠の一瞬(幸福感)を追い求める人

色々ある

私が思うにこの永遠の一瞬というのは厄介で

馬鹿じゃないと実現不可なのだ

頭が良いとそんなこと不可能だと割り切ってしまえるから。

だから、馬鹿が賢くなって、馬鹿の頃の幸せを追い求めたらきっと幸せだと思うんだ

私は馬鹿に満たない生物だった

幸せの正体

人との接点

当たり前がわからない怖さ

まあ。。もともと望んだわけでもない胸のぽっかりを

誰かにわかってもらいたくて

追いかけている

羨ましいという感情

自分のために、なんて羨ましさがない

自分について良く知り、良く頑張ってきたから。誰にも負けない自信があった

どんなに天性が安く、誰の目にも必要とされないものであったとして

それなりに頑張ってきた

そういう孤独さを知らない人が羨ましい人だった時

そのことについて考えるのは無意味だと思う

言葉に助けられるということもある。

私だって幸せになりたかったのだ。

もうなれない幸せに。完璧を求める辛さを。

現実の辛さなんか結局、頭の良さより経験が混ざってしまうのだから、この世の中は不平等だと思う。

得られないとわかっても追い求める人生

自分らしさに価値を求めない人生

全て

くだらない

人生も

物事も

やりとりも

全てが下らない

生まれた意味なんてないし

自分の正体は脳が作り上げた思考だから

居なくなれば死への恐怖も無い

生まれたことに意味はない

必要以上にイライラして

時間を浪費するだけ

一定の不平等で

それを気づかせてもらわずにしあわせな人

見ないふりをする人

見てしまう人

お前ら全員俺に関わるな

oregairu

この世で一番辛いのは何か、人にとって

って言ったらやっぱり人に必要とされないこと。

嬉しいのは誰かに必要とされること。

人に必要とされる人は、誰かを必要とする人だ。

だから自分を慈しみ誰かを愛し愛される人が羨まれるんだと思った。

大勢の人はそれができないから。

人は常に自分にないものを、ねだる生き物だから。

 

自分を振り返ってみると、他人の顔色ばかり伺って相手の本心を理解しようとしてこなかった。割と、理解できない恐怖に(それは過干渉だし神経過敏なところがあるので、改善効率を踏まえると薬物療法もありかなと、好きな元精神科医の人と相談しています。)縛られて24年間自分の中で冷戦を続けていた様な、そんな気分。

これをやったらいいじゃない、とか

あれをやってしまえばいい、とか

行動力っていうのは一種の無視、周囲の無視と自己愛から始まる

と私は思う。独学なので、知らないです。経験則です。

行動力が強い人っていうのは天涯孤独な人です。

ここでいう行動力とは、リスク、つまり現状の幸福を変化させ、新しい幸福を掴みに新天地(未開拓ということ)に臨めるかどうか、ということ。

行動力のある人には人が付いてきやすいと思う。

それは潜在能力とか、努力によるもの。IQとEQみたいな。

人は自分にないものを追い求めるから(特に恋愛感情)

努力できる人や生まれもった才能(そんなものない、みんな持ってるし)に惹かれるんだろうと思う。

別にまあ自分より凄い人はいるし、尊敬する人もいる。

負けたなあと思うひともいれば、それは自分にはできなかった努力を続けた人だからしゃあないって思うこともある。自分は違う方面で何か努力をしてきたかな、と考えることもある。努力努力努力で、皆努力せざるを得ないんだろうけど、

努力量が一番多い人は一番恵まれなかったと自認している人なんだと思う。

元から必要とされてきた人の努力量なんか、僕みたいな人からしたらチンケにしか思えない。別にバカにしていないし、それで良い。調和取れなくなるからさ。

必要とされない人には必要とされないなりに努力が必要で、

必要とされる人にはそれはそれで分別や断捨離、自分を大切にする努力なんかが発生する。

そうやって皆難しいバランスに耐えられなくなっている。

現状分析に意味なんかないと思う。

こう言ったことを書いて何かが変わるとは思わない。

考えが変わったと思ったから書く。

自分なりに好きなものを慈しめればそれで良いと思うし。

俺がいるから大丈夫

不適合の詳細

について考えてみたくなった。

きっかけは、キズキという学習塾を創業した安田祐輔さんという方が最近出版した、

暗闇でも走る 発達障害・うつ・ひきこもりだった僕が不登校・中退者の進学塾をつくった理由 https://www.amazon.co.jp/dp/4062210428/ref=cm_sw_r_cp_api_d0IlBb0EWWRHR

というタイトルの、ドキュメンタリみたいな本を読んだから。7時に買って、飯食って爆睡して結局40分くらいで一気に読み進めた。意志が筆を動かしたんだろうなという感情的なメッセージが多く、自分にとって共感しやすかったからか、読みやすい(ないし飛ばし読みしやすい)内容だった。

とにかくまあ今自分の中での最大の考え事といえば、

何もかも人のせいにすることなく今のありのままを受け止めた上で、さあどこへ向かいますか。ということ。

だいたいこういう思考をしている時って、自分のありのままを客観視したくないか、現実を受け入れたくないから漫然とした時間を過ごしがちだ。

とりあえず、下手なりに自分が今のテーマに至った経緯と

これからどうしていきたいのか、ないし何があると私にとって希望が溢れるのか

について考えたい。

あまり過去に浸ったって意味はないけれど(なんてったって過去を作り出すのは今の自分だから、今の自分が変われば過去の思い出だって簡単に見方や捉え所が変わる)、とりあえず今に至るまでを書き進めてみる。被害者意識の強い書き方はもうやってきたから、なるべくポジティブに。

若い頃、まあ特に幼少期からストレスを抱えやすかった。

恐らく2歳まで広島の、瀬戸内海が眺められる丘に立つ家に住んでいたらしく、その家での心地良さが奪われたと思ったからだろう。2歳から突然、自然がなくなった。東京都いう機械的な大都会に放り込まれて、かなり面食らった。

自由を許さない雰囲気が怖くて真正面から向き合うのを恐れた。

まあそんな事はどうだってよくて。。とにかく根は穏やか慎重真面目な普通の男の子だった。特徴もないし、強いてあげるなら多動的な人間だったと思う。

小学校の頃もやんちゃなガキンチョだったし。あまり罪みたいな社会的通念について覚えがなく、両親から教わることもなかった。基本的に放任主義で、何かあったら登場するっていう感じだったと思う。

劣等感は強かった。恐らく体が小さかったので、人一倍努力しないといけないという事は子供の頃から認識せざるを得なかった、のではないかと思う。

小学校4〜5年生くらいになってから、ますます同年代の男たちとの成熟度の差が出て、ませた女の子たちとの交流もなくなり(特に体が小さいので上級生の女の子にモテていたから、自分が上級生になると立場がない)だいぶ参っていたと思う。

障害を持っている男の子に暴力を振るってみたり、気に入らないことがあったらその人の上履きを隠したり、そういうことをやっては怒られ、反省しなかったのも、教育不足だと思う。

今の自分からすると普通に考えて、他人に対する思いやりがない。っていうやつ。

別にではその思い出が完全悪だとは思わない。なぜかというとやっぱりそういう行動の裏にはなんらかのストレスがあるのが人間だからだ。

理由はわからないが、とりあえず皆と比べて体が小さいせいで周囲に相手にされることがなく、同世代とのコミュニケーション不足に悩まされた。関わりに行っても、あまり楽しいと思えるような機会が得られなくて、孤独を感じていた。

友達に誕生日を祝われた思い出も、祝われてありがとう、と言った思い出もない。

友達の家に行ってゲームをした思い出はある、が、なんかどことなく疎外感を感じていた。3人とか4人とかで遊んでいると、やたらめったら自分が省かれているような感じがした。だから今、僕は2人でのコミュニケーションが得意だ。大人になったのである程度耐性は付いたものの、いまだに3人以上の空間にいると、ましてそれが気のおけない関係者でなければ、閉口してしまう。

口では、人と親密なコミュニケーションが取れなくなるから、とか言っているが、本音は出来ないので自己防衛しているだけだ。良いとは思う。そういう人間なのだ。

得意不得意があっていいじゃないか。だってまず、3人もいたら3人ぶんの意識配分をしないといけなくて、それが恐らく社交性の本質なのだと思うけど、僕はそういうことをやってこなかったものだから、まじで助けられないと死ぬ。何も喋れなくなる。

二人だと特に、自分のすきに話せるし、気のおけない関係じゃないと二人でいることって不可能なので、いいことだとは思う。ただ、親密な関係だけじゃやっぱりバランスがおかしいのもわかる。

僕とは逆に、友達はたくさんいるけれど、親密な関係を作るのが苦手な人もいる。

僕はこういう人がすきだ。僕にはないコミュニケーションスキルを持っていて、でもって僕の話を親身に二人でいるとき聞いてくれる。大勢の人がいるところでは虚勢を張って良い人を演じて、僕はそういう疲れを、癒して(というおこがましい発想ではないが、、)あげれる?自分の本音をさらけ出せない人と、僕は良い関係性を持ってきた。

だいたい女性だ。女性的な人でないと、1:多のコミュニケーションが得意な人ってあまりいないし。男性って基本、常々思うけど、孤独だ。

野生動物に似ている。子供を作ったら追い出され、子供が出来ると愛情が離れ、って具合に基本友達っていない。

しっかり教育された人には、こういう悩みって一切無いらしい。

せいぜい、男子校育ちで女子との関係が薄いとか、もっとお金が欲しいとか、もんの凄く人間的なことで苦悩(それさえも理性をフルコントロールして、悩まない)しているけれど、結局すぐ解決策を見出して僕の目の前から姿を消していく。。

こういう人間関係は、寂しい。きっと自分も、しっかり教育された側にいたかったのだ。ただ、やっぱり教育は不足していたし、他者への愛情もなかった。努力はした方だと思うけど、才能が如何せん足りず、東大京大生と比べるとどうしてもペンの力では勝てそうにない。本当なら、勉強は割と得意分野のはず。だけれども、勉強を全然しなかったので(というか、したつもりだったけど、全体と比べると全然してなかった。しなくても要領よくて点取れてしまっていたから、うまいこと忘れてた気がする)

ウサギとカメで言うところの、ウサギである。気づいたらすばしっこく走るための脚力が減り、根性も減った。

大人になるにつれ、これらの基礎能力の差で、たくさん落ち込んだ。

落ち込んだはいいが、それは僕にはもはやどうすることもできないことなので、

改めて東大京大に入試を受けて合格して自信を持つのか(ちょびっとしか持てなさそうだけど、価値はありそうだ。でも、物凄く大変そうだ。何しろ中学受験算数が出来ることが結局大学受験の合格に一番寄与するってわかっているのだから、、中学までが一番勉強していなかったので、取り返しが大変すぎる。結局、特に数学・算数なのだが、パターンとして覚えようとすると、発想が減る。それでも東大には入れるけど、また別の悩みが出てきそうだ。つまりは、閃く力のなさ。これまた多分どうしようもない。多くの人が経験している悩みだと勝手に思ったりする)

医学部入試も悪くないなって思う。まあとにかく、私には日常生活において上手に振る舞うことが、一定他者よりは出来るものの、生まれながらにサラブレッド、勉強は出来て当然の家系、追加オプションで容姿とか、コミュニケーション能力とか、何らかも更にそこそことなってくるともう自分には到底敵わないなって。現実を理解する。

こうやって、私には現実を踏まえて〜って生き方の時間が流れた。

ある意味で、刹那的で動物的な生き方だと思う。脳みその多分ほとんどの機能を使いこなしていないし(multipleかどうかって意味で。とても一本の線のような実直な使い方かつ使いこなせてない下手さだ)

使いこなすための知恵がない。知恵ばかりは、生まれた家系を恨むくらいしか出来ない。

ポジティブに生きるとか、そう言うのってはっきり言って努力だ。苦しい思いをしてこなかったから、ポジティブに捉えようとしない。のかもしれない。ないし、嫌な思いをしなくても生きていけるような生き方をしてきたのかもしれない。私にはそれが出来ない。もちろん社会情勢が、両親の頃とは異なっており、年金の金利も落ち、社会保険料も爆上がり、若者の人口は10年前の半分以下になり、40才以降の甘い蜜を吸ってきた大人たちが頑張っている世の中じゃ、なかなか若者に陽の目が見られないのも恨みっこなしだ。とりま、産んでくれてありがとう。

だらだら書いたけど、とにかく私にはまとめると以下のようなコンプレックスがある

・大勢の人がいる場における自立が苦手

例)

- 3人以上の空間での自分の立ち振る舞いがわからない

 - 知らない人には嫌われていると感じてしまう

 - 田舎生まれなので、良くも悪くも温情派・隣の人を観察するのは当たり前と思い込んでいるけれど、一期一会の都会だとそうはいかない。皆、冷たい。そのギャップに苦しむ

・現実的で理性のコントールが苦手なので、自分の身体能力を他と比較しすぎる(比較するだけじゃ変わらないのに)

大別するときっとこの二つだろう。特に勉強は得意なのに結果が伴っていなかったから、悲しい。

ポジティブに書こうと思ったが、書けなかった。

とりあえず、自己観察は出来た。次は、自分をどうしてあげたいか、だ。

これが難しいのだ。

 

 

 

自分をどうしたいかについて

私はあまり自分を自己変革する意識にかられない。

動物的なので、その日暮らし衝動的な判断しかできない。

大人になれば、理性的に物事を捉えることができるかもしれないが、何となくそれは今までの自分の快楽を捨てよと言われているような気がして、子供らしさが惜しい。

子供らしさは、ずっと抱えていたいから。また、これなら納得がいく、と言う理性イメージが、無い。これが最も考えるべきテーマかもしれない。

自分でも納得のいく、自分の育て方について、一考してみたいと思う。

自分が苦手なのは、理性でもってして自分のやりたいことをやるが、相手の感情は無視した個人プレー。無論そんな悪者は世の中にはいないし、大抵の場合それで許されてきたのだから、これは個人的な解釈だ。そう捉えると、不愉快になるので、やめようと思う。

いいなと思う人、どうしようもなくクズだけれど、心には優しさがある。

よほど人間味があって、信用したくなる。私はこうありたい。

自分の醜態を晒すことを恐れず、碌にプライドも抱かず(これがすごい。この例に挙げた現実の人物は職場の同僚(つっても3歳くらい上だが)だが、県内一の学校を出て一浪で京大に入り(私には一浪する勇気がなかったので。。今思うと入れる自信かなりあるのだけれど。。)今に至るまでかなり自分の生い立ちと格闘してきた人だ。こんな掃き溜めで失礼にあたる行為はしたくないので、その人に関する詳細な内容はまた別の機会に。)まあ、それはそれで誰かを傷つけるのだけれど、もう仕方ないじゃん、って割り切っているのが素敵だ。好き嫌いを相手に委ねるのが良い。

あと、苦手な人は、サブカル系女子だ。自分の世界を持って、相手の意見を何だって素直に聞いているように見せて、自分の脳内で勝手に都合よく解釈して、お花畑に浸る人たちだ。嫌いな理由は単純に、クッセェからだ。子供産んでさっさと素敵な女性になれ。それまでのお前らの行為は、それで許してやる。子供を産むのが遅いのも、サブカル系女子の特徴だ。きっと、やりたいことをやりなさい、と言われながら育ったに違いない(完全無敵のど偏見)なぜ嫌いかと言われると、本当に苦しんだ覚えがなさそうだからだ。とりあえず、一定以上の容姿があれば、女性は肉体的に存在するだけで価値があるから。サブカル系に浸るのはだいたいこの"一定以上の容姿"があるからなれる、フィルターがあるので(そのフィルターももしかすると緩くなってきたのかもしれない。貴族階級の崩壊?情報ネットワークの発展って本当に、偏見や情報の偏差を解消するのに寄与しているな。ブスだってサブカルになれる。俺だって神になれる)

悲劇の女王様を気取りたい、クソゴミども、と言う風に思ってしまう。

大体これも自分が恵まれなかったせいで、劣等感に苛まれているんだと思う。

もうちょっとちやほやされたかったね。今もこれは大きなコンプレックスだ。

これからの原動力にどうしていくのかが難しい。が

これくらい吐き出したら、自分のありたい理性コントロールの仕方が見えてくるだろうか、いまいち微妙だ。

学術本に手を出したら手っ取り早いかもしれないけど、胸に手をあてて考えたい。

ここまで書いて、ちょっと自分でも勘違いしていたけど、

このチャプターのテーマは、自分を成長させる、と言う疲れる行為ではなくて、むしろ疲れさせないための大人になる方法について考えているのだった。

ゲームをしてると、現実逃避ができて楽だ。不登校の人間も大体ゲームやってる。

ゲーム好きな人って、現実にコンプレックスを抱いているから。

現実のコンプレックスは取り除きたいか。面倒なので良い。

30才になった時何が幸せか。難しい。現実を踏まえて、

家族が欲しい。

これか。

自分一人で頑張るにはもう体力が残っていないから、

誰かのために生きることで、何かしら自分の生きる意味に問いただす時間を設けてみたい。そのためには大切な何かと交わらないといけない。

結婚したり、お金を稼いだり、まあでも、そう言う悩みは割と解決できそうだ。

チャチャっと結婚してみるのも、悪くない。

そうと決まれば、それに向かって行動だ。ゆっくりと。

なんか、ちょっとずつ落ち着いてきた気がするぞ。

病院と情緒

駄文

昨日お昼頃、今週ずっと楽しみにしていた診察に行ってきた。

診察が楽しみっていう時点でちょっと変かもしれないけれど、それくらい他の関心ごとへの効用感が薄れてきていたので、仕方ない。

楽しみの理由は、今の悩みを打ち明けて、解決策を考えてくれると期待していたからだ。

実際、行ってみて理想と違う部分はあれど、概ね現在の病院の提供できる機能としては十分だろう、と言う満足感を得た。

一方で、病院に対する腑に落ちない点と、個人に対するそれがそれぞれあった。

1個目、医師の、社会復帰を是として勧進してくる口ぶり。

例えば、会社を辞めてプラプラしたいんです、って言ったとする

確かに自分が言われる立場だったとしても、特に初対面で仕事としてなれていたとしても?(適性があればそんな事はない)

いいと思う、と気軽に言えない。僕は言うけど。。。

家族も、医者も、親しい人を除けば皆、僕には社会復帰を勧めてくれる。

僕が好きな人は、そんな事はしないだろう。臨死体験とか、悠久を過ごすとか

そういう言葉の方が僕は自分にしっくりくる。面舵は自分で切らないと行けない。

 

情緒というのは誰かに左右されるためのものではない

病院だってあくまで一つのツールでしかなくて、そこに行けば全てが解決するという期待は、ある種の依存だから、直さないといけない。

これまで僕は、周りに期待ばかりして自分では何もやろうとしなかった。今回の件だってそうだ。今もこうして文章に書くことによって、理性と感情の情緒を整えようとしている。

 

なぜか

信条があるから。

具体的に存在するわけではなく、信条(思考・判断のフィルター)という概念についてなんとなく信仰するようになった。

出来る事は少ないけれど、重かった肩が軽くなった。

誰かのせい、これは良い悪い、与えられる前提に立って何かを判断するのはとても気持ち良い。僕はそれに慣れ親しんでしまっていたようだ。

別にそれでも悪い事じゃない。ただ、生きてくうちにどうやったって困難にぶち当たるのだ。その時の対処法を覚えてない。不満をたらすのが人生の処方箋でいいのか?という。

そんな事はなかった。なんだかんだで、誰かを頼るのも、自分を克己させるのも

努力だ

その人なりに出来る努力を一生懸命やっているから、誰かがあれこれ清く正しくうるさいことを言わなくたって良い

人間の経験値や終着点なんか出生に左右されるものだから

何かを正しいとか間違いとか判断するって難しい

だってこの世の中に正解なんてないから

何でもかんでも事実としてありのままに受け止めるのが一番人間的であって、情緒的だ

ただ別の見方をした時、社会的な判断力をもって生まれた人が羨ましい。

きっと落ち込んだりしても対処法を見出せるのだから。見出せない人なんていない。

ただ、ありのまま観察することとか、周囲に邪魔されたくないこととか、

自分の中に何かあったのかくらいは考えてみても良い。

少し疲れた

 

自分のことだけに物事の思考が集中しているのは好きじゃないけれど

もう少し自分のことを大切にしてみたら、結果的に誰かを大切にすることが出来るんじゃないか。

気負い過ぎないで行こう

才能の差の話

人には生まれもってポテンシャル・スペック、所謂遺伝子レベルでの優劣の差分が決まってくる。

少なくともこれまでの人類史で最も差別的な要素が遺伝子じゃないだろうか。

背が高ければ、運動能力が高ければ、足が長ければ、

人は自分に適したものを本能的に選ぶ生き物で、

生まれつき体が小さくて弱々しければ、そのカードを元にどんな異性を選ぶか、

というゲームが始まるし

生まれつき体が大きくた頭が良くて顔も良いとすれば、そのカードを元にきっと前者の数倍の経験値を得られることだろう。

だからつまり現在の人間同士の間にある差分というのは歴史的に比例的に広がっているということでもあると思う。

そんなわけで私は、特に、スペックが非常に高かった訳でもなければ

どちらかというと悪くはないけれど、地方の少ないカードの中で満足できる、くらいの人種だった訳。

この話はもはや、何十年もしてきたから、もう嫌なんだけど

私はその前提に立って、自分を生かし続けてきた。

つまり、上記前提を小学3年生くらいの時から自覚するようになって、

それ以来、葛藤は無論長かったものの、結局今にいたるまで、特に青年期から壮年期まで、努力しまくった。

ここでいう努力とは、別に望んでもいなかったものだ。

私はしなくて良いことはしたくないし、したいことだけやれてればよい。

皆そうだろう?だから、つまり、努力なんていうものは基本的に本能に逆らう、環境への対抗手段なのだ。

努力する人、というのは、何かしら明らかに劣等意識が強くあり、

それを打ち消すために努力をする人のことを指す

私が嫌いなのは

生まれもって強いカードを持った人がそのことを無自覚に(別に自覚したから何かが変わる訳ではないのだが。変に卑屈になられても、まあ個人的には嬉しいがね。平均的に努力が評価されるので。非常に純粋に平等な社会だと思う。それは)

強そうに生きてる人たち。恨んだって妬んだってしょうがないのはわかっていたって

どうしても自分には大富豪で言うところのJokerと2がなかったから、与えられたj,q,kでやつらをコテンパンに、

自分だって勝てるのだ、と言うことを証明して見せようと、一種の努力を行った。

 

結果どうだろう?

体を壊してしまった。

だし、生まれもった強い人間にはこの文章の意味が理解に困しむのだ。それも知っている。強い人間は"強い自分"のことしか考えないから他人の気持ちなんてわからないのだ。奪えるだけ奪えればハッピー、多少の努力があったとして、それは私にとったら凄いエネルギー量とバランスだけど、それさえもなんか生まれもったカードの差じゃん、ってわかっている。その上で闘ってきた。えらそうに、自分のそんな気持ちを共感してくれもせずに、強そうにのさばる皆が、今だって嫌い。

 

別にこれは、どう言うレッテルを貼られたとか、そう言う話じゃなくて

個人の感覚としてそうなんだよ。誰にもわかってもらえなくたってかまわなくって

自分が偉いと感じる感性

内向性・外向性

直観・感覚

思考・感情

判断と知覚

このバランスは変わらない。

 

 

 

でもってして自分のこんな性格が、卑屈だね、なんて思いもしなければ

ただ正しいことを述べただけだとすら思っている訳で、

10年来卑屈だねと、皮肉なように思われていたこの感性も

大人になった(死ぬほどの努力をしたから)から言えるんだ、卑屈じゃないんだと。

私にとっては努力こそが生きがいで、それは必要性に駆られただけの、

"私が本当にやりたかったことじゃない"ことくらい10才になる頃には自覚していた。

最初から強いカードを引いている人は、そもそもこういった感性すら、3,4才とか、もはや言語化しなくても知覚できているからわざわざ悩まない方が多い。

 

だから最初から会話なんか成立しなくてかまわないのだ。

私は好きな人に好きと言う。彼や彼女が自分より優れたり劣ったりしていたとしても、そのことに関して、特に優れている場合、何らかの期待を持つことは、誤りなんだ。

劣った人に対して自分が失礼に振る舞うのも(こういった発言自体舐めているし)

本当はつまり私は心の優しい人間になりたい

誰かのために生き、誰かを幸せにする社会を

全てが平等なら、全てが平等に評価されて、褒められて、叱られて

間違ったことをしなくなるんだ。そう言う世の中がほしい。

その世界には、ただ幸福だけあって、わざわざくだらない性病をくだらない人間から貰うようなくだらない出来事で大切にしてくれる人をくだらない扱いにして本人は悪いと思ったつもりでも本人には伝わっていないと言うような、どうしようもない事実関係について時間を浪費するようなくだらない出来事も存在しなくなる。

SNSに自分の悪口が描かれることもなくなり、自分のオナニーだけをふりまく人生も否定される。誰かのために生きることが生物としてのあるべき姿として、自分だけのやりたいことをやる人生が虚しくなる、そう言う。

 

そう言う世界に私は生きたい。だから、平等とか、そう言う言葉があなたにとって嫌いということも存分に理解されます。くっだらねえわ。死ね

 

結局のところ私はこの自分の判断力というものを一番頼りにすることで生き残れた。

自分が好きな人は感覚で生き残れる本能的優秀さを持った生き物だ。

それは自分が感覚で生き残りたかったけれども、生き残れなかったという劣等意識、所謂コンプレックスからきている。

それだってどうしようもないのだ。相手にだって相手なりの悩みがあって、私にだって私なりの悩みがある。伝わる伝わらないは、もはやその人次第であるから。

理解する、されない、話は

理解したい、したくない、つまりはやりたい・ありたい姿に近い、近くないの差でしかないのであって、

本来才能の差なんて気にし立って仕方なくて、自分にないものをねだるのが、本来的に間違ったこととは言えない気がしています。自分に自信を持つこと、持たなくたっていいこと、それら全てを踏まえて。私は自信を持つべきだと思う。

それは決して何をやったかとかチンケなくっだらねえ話じゃねえ。

そんなゴミみたいな運要素、頼ってるのはゴミだ。自分なりの行動を持ってして真面目に取り組めてればいい。休め