最近頑張っているので、たまには褒めてあげたい

仕事をして眠って、お腹が痛くなって

朝起きるのが苦しかったりして

土曜日にちょっと早めに起きる

11時だが

だが仕事をしている感じがする

弦を張り替えようとする

ついに5年位前に買った、チューニング用のあれ

豆電池で音の周波数を確認するものが

電池きれていた。

いつまでも続くからきっとこのまま永久機関二でもなるのだろうと思った

でも

人間として一番やっちゃいけない

 

嫌なものに言葉は与えない

与えると、自分が腐るから

 

いつまでも正解不正解の世界に留まってる

留まってるというか望んでいる

でも

望むだけが全てじゃないから嘘がつけないから

こうやってノンビリとのうのうと

一人暮らしにふける

幸せになりたいし望むことを追求する姿が

一番美しいこと今一度よく知ってる

 

自分の本来の姿を誰にも見せていない

 

人の違い

地元、とか友達とかの定義がいまいちわからんのですが

その根底は育った場所の人間関係に依存するんだとおもいます

おおらかな環境で育ったのならおおらかさを

個人主義に揉まれたのなら

あくまで様々な外的要因との自分との相談

で、何が言いたかったかというと

小学校の頃に

周りと全く会話が噛み合わなかったなあことを思い出したのだ

なんというか、きっと僕の価値観はやんちゃなガキっぽさと悪ガキさと勇気と、真摯な情緒で培われており、周囲の人間は、今も変わらず(それを知らずに不安に駆られたわけだが笑

ウェイウェイしている

なんか気づけば自分の居場所をどこにも見出せずにいた

友達とはなんだったのか

なんかこう、会話が噛み合う素地がない

どことなく皆周りに無関心なのを平均

当たり前

自分中心であることの当たり前

そうやって生き続けられる世の中も

東京も

杉並区も

その学校も全て嫌いだった。

人間関係もだし、学問も

悔しいね

そういったことに憤りを感じている

宗教の世界には自他の対立はなく、安息が得られる。しかしまた自他対立のない世界は向上もなく理想もない。人はなぜ向上しなければならないか、と開き直って問われると、いまの私には「向上することもできなければ他にすることも思い当たることがややもすれば難しいから」とか答えるかもしれないが、向上なく理想もない世界には住めなさそうだ。

だから私は純理性の世界だけでも、また宗教的世界だけでもやっていけず、両方を兼ね備えた世界で生存し続けるのであろう。

そういう人と同じ空気を吸いたい

鬱の行方、行く末

鬱な気持ちはなんで起きるのか

今までわかっていたようであまりわかっていなかったようだ

鬱は、見知らぬ他人に靴を踏まれて嫌な気持ちになったり、そういうのとはかけ離れており

鬱になるのは、誰か見知らぬ他人が、自分の靴をわざと踏もうとしているんじゃないかという不安で患うもの

きっとストレスの源泉は常に他人に変わりないから

通常の人間、と言ってイメージされるような人間が、ストレスとうまく向き合えるのもわかる

ただしストレスとうまく向き合うっていうのはとても難しいことだとも思う

一見明るそうな彼が気付けば自殺するのかもしれないし視野がどん底まで狭くなって追い詰められてでも蘇る人だっているんじゃあないかなあとも思う

つくづく思うのは、人の苛立ちだとかっていうものは、向き合えるものじゃあないんだなってこと

全部の気付けるイライラに全部向き合おうとしたらこうなる

全部擲つ気も無くなって

誰の助けもストレスに変わって

人のこと、ほんとに信用できなくなっていく

外を歩けば視力に反比例して周りの悪意を勝手に醸成してしまうし

さらに言えば自分が思わないにせよ、誰かが自分を殺してやろうと思っているんじゃあないかとかそんな気持ちが

どこにいても感じられるのである

家に閉じこもればギリ生き延びるが、それだと人として生きていくことが難しいし

残された道は誰彼構わず倫理の再構築を行うことなんだと思うけど

無理なものは無理なので自覚しただけラッキーだと思って

なにも考えないようにする