できることをやれよ

今日、思ったことがある

どこまで行っても人は人で

俺の価値観なんてどうでもよくって

訴えたところで刺さってなんになるの

なにがやりたいの

楽しいことがやりたい?

楽しいことには、飽きたのかもしれない

何かに打ち込む自分を信用しない

 

今日、現職を紹介してくれた第一人者である

ちょっと変わった経歴の叔父さんとお昼した

 

その人は、海外経験が豊富だから

素直に日本人としての違和感を吐露してみた

 

もうなんか、僕の世代って

フリーランスとかっつって

就職とかもろくにせずにですよ

やりたいことやる人がいるんです

 

なんか僕もそうなりたいなあって

そう思うわけです

 

藤城さんはどう思いますか?

尋ねてみたところ

でも、できることはありますからね

の一言

 

できること?

 

できることとは、どんな理想を嘆いたとて

今の自分に出来ることを超えることは出来ないんだと言う事

自分はなにがやりたいの?

経営がしたいの?アプリを磨いていたいの?

そうじゃないよね

やりたいこと、

やるべきことだよね

やらなきゃならんことだから

やるようになるし

できるようになって

好きになるんだよね

 

なんのために期待されてるんだろうかって

今一度自分に問う

本気になれてないのは何でだ?

言い訳を探しているんじゃあないか?

そんな風に思うんで

前のめりにならなきゃ

挫けてる暇

ないはずだよね

 

でも

泣きたい時は

泣かせてくださいな

邪魔

適切な落ち込み方
何もかもどうでもよくなって
もはや死んでしまいたいなあと
思う日が続くと

 

今日は嫌なことがあった
とか
最近なんかつらいな
では
片付けられないような
自己不全感が脳裏を過ぎる

 

かたや世の中には
この生き方
最高だわ
しこしこー
幸せそうに今日もぶちまける人もおり

どうしてこうなったのだろうと
思うことが常々ある
常々というか、毎秒ある

 

どうしてこの人は
とか
どうしてこんな態度で
とか

思うのは
"弱いから"なんでしょうか

勢いよくオラァオラァって
喚き散らす方が価値があるんですかね

 

今生きる上でこうして考えることは
自分の努力とか運とか
認められることとかによって
偶然に生まれた今日なわけで

決して今を幸せに
なんて軽いことは言えぬ

むしろ
お疲れ様でした
と言いたい

全ての生きとし生けるものに

おつかれさま

 

どうしてこんなつらいのか
軽口を叩けば孤独だ

まどろっこしい言い方をすれば面倒なやつだ

生きづらそうだね笑
とか言われるのにも慣れて
適当に相槌打てばよくて

 

資本主義から逃げらんねえなあ笑
とか言いながら喫茶店で茶を啜って

仲の良いのか悪いのかもわからないような
ちょっと訳ありな関係も芳せながら

ふふふ
とか言って意味のわからないことに笑いを生み出す自分はどこへ行った

 

 

 つまり

誰にも干渉されたくない

誰かに助けてもらいたい

その誰かは決して貴方ではない

 

そういう気持ちで街を歩く

純粋な欲望にプライドは無意味だ

本来ならば苦しむから生まれる

そういうもんじゃなく

ただただ美しいと思うから

自分を捨ててでも何かを生み出したいと思うから

人は何かを描き続けるんだ

文字に頼る人は、何かこう、美しさよりも、自分との対話に落ち着いている

自己顕示欲と自己不全感のアンビバレンス

やることと知ることとできることとわかることの違い

やることと

知ることと

できることと

わかること

誰もわかっちゃいないその区別を

 

やるっていうのはだれにしもにあてはまる

知ることは学べばわかるってことだ

わかるってのは経験して理解することだ

全然違う

知るのは、正解かどうかは別として、普遍的に落とし込もうとしたときに導かれるそれっぽい話

わかるのは、正解かどうかは別にしても、普遍的とか言えない、体験した事実を理解することだ

人はこの知るとわかるを帰納と演繹で考える

でもいずれにせよ思考は2次元的であり、3次元的な思考を操れる人はいない

まして4次元的な思考は見ない

できること

これは陳腐だ

自己不全と自己顕示があるからこそそんな風に言えるのかもしれないさ

でも、できることを繰り返すことに意味はない

できることを増やすことに意味はあるか

順序が逆だ

やりたいことをできるようにするんだろうが

言葉を頼る人について

言葉を頼る人について

ちょいと疑問に思った

写真や絵画や彫刻や音楽

様々な技法がある中で

なぜわざわざ言葉を頼るのか

言葉に浸かって文を織り成す

人たちというのは

科学者の論文でないとすれば

その芸術はなんであろうか

見当がつかないのであるが

知の愛

頭に生きてしまう

そんなところ

普通に面を出歩いて平気な顔をするほど

当然と思われる振る舞いに神経質な生き物のための救いのば

のような気がする

 

でもあれだ、たぶん

写真とか嫌いなのは

無論最初から好きでそれをやっている人は好きにしてればいいけど

言葉ほど脳内垂れ流す機能は芸術になくて

絵画や写真や音楽なんていうものたちは

ある程度の自由解釈を許す余白を持って作られた価値だけど

文字って基本的に孤独だ

分かり合えない前提で成り立っている

もともと孤独感強い人間だったと思うけど

ここまで存在意義を軽視するとどうしてこうなったという感じだ

写真が嫌いだ

写真が嫌いだ

誰に何と言われようとやっぱり

写真は

写真を撮るためにある訳ではない

撮らなきゃいけないから撮る訳であり

無論目的は人それぞれだけど

撮るからには精一杯美しいものにしたいと思うし

そのためには膨大な数の写真と

綺麗だと思う光景が必要

 

綺麗なものは微塵も存在しないことは

写真を撮る前に生きていれば分かる

なのになんだか小手先に拘って

美しさに拘泥するのをよく目にする

この会社に入ってから

そういう職種だし

そういう人が多いこと分かっていたけど

何も考えないで

楽しさに浸れる人と分かり合えるほど

幸せに生まれてないし

育とうとも思わないし

幸せになりたいとは思うけど

自分の努力で勝ち取りたいし

自己正当化といえばそうだし

長い目で見ると相手じゃない

自分の悪い癖

なんでも出来るようになりたがること

綺麗な写真を撮る頃には

きっともう今の自分には戻れないだろう

撮る気もない

というより、こんな美しくないことを撮りたくない

普通ならそうなる

きっと中島敦中原中也太宰治なんか読む気にもならない人たちなんだろう

あるいはそこに美しさとかを感じるのだろう

人生そんなものじゃないと思うけどな。