純粋な欲望にプライドは無意味だ

本来ならば苦しむから生まれる

そういうもんじゃなく

ただただ美しいと思うから

自分を捨ててでも何かを生み出したいと思うから

人は何かを描き続けるんだ

文字に頼る人は、何かこう、美しさよりも、自分との対話に落ち着いている

自己顕示欲と自己不全感のアンビバレンス

やることと知ることとできることとわかることの違い

やることと

知ることと

できることと

わかること

誰もわかっちゃいないその区別を

 

やるっていうのはだれにしもにあてはまる

知ることは学べばわかるってことだ

わかるってのは経験して理解することだ

全然違う

知るのは、正解かどうかは別として、普遍的に落とし込もうとしたときに導かれるそれっぽい話

わかるのは、正解かどうかは別にしても、普遍的とか言えない、体験した事実を理解することだ

人はこの知るとわかるを帰納と演繹で考える

でもいずれにせよ思考は2次元的であり、3次元的な思考を操れる人はいない

まして4次元的な思考は見ない

できること

これは陳腐だ

自己不全と自己顕示があるからこそそんな風に言えるのかもしれないさ

でも、できることを繰り返すことに意味はない

できることを増やすことに意味はあるか

順序が逆だ

やりたいことをできるようにするんだろうが

言葉を頼る人について

言葉を頼る人について

ちょいと疑問に思った

写真や絵画や彫刻や音楽

様々な技法がある中で

なぜわざわざ言葉を頼るのか

言葉に浸かって文を織り成す

人たちというのは

科学者の論文でないとすれば

その芸術はなんであろうか

見当がつかないのであるが

知の愛

頭に生きてしまう

そんなところ

普通に面を出歩いて平気な顔をするほど

当然と思われる振る舞いに神経質な生き物のための救いのば

のような気がする

 

でもあれだ、たぶん

写真とか嫌いなのは

無論最初から好きでそれをやっている人は好きにしてればいいけど

言葉ほど脳内垂れ流す機能は芸術になくて

絵画や写真や音楽なんていうものたちは

ある程度の自由解釈を許す余白を持って作られた価値だけど

文字って基本的に孤独だ

分かり合えない前提で成り立っている

もともと孤独感強い人間だったと思うけど

ここまで存在意義を軽視するとどうしてこうなったという感じだ

写真が嫌いだ

写真が嫌いだ

誰に何と言われようとやっぱり

写真は

写真を撮るためにある訳ではない

撮らなきゃいけないから撮る訳であり

無論目的は人それぞれだけど

撮るからには精一杯美しいものにしたいと思うし

そのためには膨大な数の写真と

綺麗だと思う光景が必要

 

綺麗なものは微塵も存在しないことは

写真を撮る前に生きていれば分かる

なのになんだか小手先に拘って

美しさに拘泥するのをよく目にする

この会社に入ってから

そういう職種だし

そういう人が多いこと分かっていたけど

何も考えないで

楽しさに浸れる人と分かり合えるほど

幸せに生まれてないし

育とうとも思わないし

幸せになりたいとは思うけど

自分の努力で勝ち取りたいし

自己正当化といえばそうだし

長い目で見ると相手じゃない

自分の悪い癖

なんでも出来るようになりたがること

綺麗な写真を撮る頃には

きっともう今の自分には戻れないだろう

撮る気もない

というより、こんな美しくないことを撮りたくない

普通ならそうなる

きっと中島敦中原中也太宰治なんか読む気にもならない人たちなんだろう

あるいはそこに美しさとかを感じるのだろう

人生そんなものじゃないと思うけどな。

芸術のその先へ

悩みでも何でもなくてただ平易なことを書くけど

やりたいことや夢はやらないことでしか実現しえない

やりたいことをやるには

喜びや幸せのような結果を捨て

続ける力を頼り続けることにある

こんなこと続けていいんだろうかとか思ったら次も同じだし切り替えるには気持ちしかなくて

意図して気持ちを切り替えるというよりかは切り替わるべくして切り替わっていくものだと思っている

芸術のその先へと書いたのは

文字に依存しない表現でしか人は感動を覚えられないからだということだ

文字を使って誰彼を感動させることは出来るかもしれないけど

論理と情熱の話の続き

http://sejies.blog.fc2.com/blog-entry-50.html?sp

 

論理とは

成功確率を上げるための、いわゆる"合理的"な判断だと思う

例えば(これは日本に限った話にした方がより現実味が増すので)とても頭が良くて、東大に入れるような人物が、東大に入ることなく工場でネジの点検を行う仕事に就いたとしたら、数年後にそれぞれの選択の差異がどれほどのものになるだろうか

ある社会学者からすれば"環境は人を縛る"のは事実であり、フィールドワーク(社会学者本人がホームレスになり、数ヶ月後に環境を変えることができるかどうかの実験。結果、貧乏を脱することが出来なかった)では明らかにそれが現れていた。

海外に絞って仕舞えばきっと才能を生かす様々な方法論が、特にアメリカにはあったであろうが、自分は日本に生まれ、日本に育ったので、その観点からこの論理というものを展開しているが

つまり論理とはこのように

時間軸において自分の最大能力をもってしてとるべき最も利益の大きな選択をとることである

東大に入れるが、才能の無い音楽に酔いしれて、音楽の道に進んだとすれば、それはその時点では情熱を選択したと言える

情熱の良いところは、それまでの結果を清算することができることだ

情熱には、新たな論理を生み出すことの出来る可能性が秘められている

人は情熱に駆られた行為を連続的に行うべきであるが、それは常に論理とのバランスを弁えた上で行われるべきでもある。

 

林を例にとってみる。

特に論理的に考える脳の無いまま無名の高校に入学し、15歳になってようやく論理の大事さに気付き、勉強するようになった。結果、動き出すのが遅かったものの、それにしては高い成果を出すことが出来ていたので、要領の悪いなりに上位校に入学した。大学は、本当なら情報系に行きたかった。今思えば、情報より理論物理や生物の方が自分には性に合っていたような気もするが、その時点では本来傾くべき情熱はそこにあった。しかし、前述の通り、あまりに論理が足りなかったので、就活に有利な有名大学に入るまでに終わってしまった。

ここで一つ考えられるお題は、

とりあえずネームバリューに肖って東大に入るのか(論理的正解)、やりたいことができる芸術系の学校に入学するのか(情熱的正解)、というのと同じである。

皆さんはどちらを選ぶだろう。ちなみに、論理と情熱のどちらを選ぶかは、日々この瞬間に変えることができるのでチャンスだ。

 

そして、林は論理的正解を選んだ。それはやはり、自分がなにより論理的正解の行く末を見ることが無かったからだ。

だからもし、僕が中学までずっと成績1番で、勉学や芸術の範囲なら、出来ることなんだってあるんであれば、この道を選ぶことはなかったであろう。でも、そのための努力もしなかった。

人によっては、僕と同じ環境下でも高校入学後に情熱を選択して、やや無謀と言わざるを得ない選択を行うことができる人もいるが。

まあただ、往々にして言えるのは

論理に従う人間には人間的な魅力が薄く

情熱に従う人間には人間的な魅力がある

ということだ

そして

論理に従った人間ほど失敗と偏りが少なく

情熱に従った人間ほど成功とバランスが無い

常に両者はアンビバレントな関係で

誰が何であろうと自分の好きに生きれば良いのである、という話だ

 

今自分は、論理に従って生きているがいつまでやりたいのかわからないし

明日辞めるのかもしれないし

でもそんな突飛な生き方をするような気もしない

そしてなにより、論理と情熱の選択は

最終的にその人にとって最も適切な量に落ち着く

自分でも、あれ、自分って意外と大胆なんだな、なんて思うこともあると思うが

それが適切なのである。

自分にとっては当たり前の選択であっても、他人から見て異常なのであれば、それは十分情熱に従った、と言っても良いだろう。

本当に優しい人間

とは

何か

思うところがあって

書いてみる

自分を知ろうと汗水垂らしていて

自己不全を理解して

でも自己肯定が出来て

愛し愛されようとして

そのために自己開示を不貞腐れず

目の前の現実、やらなきゃいけないこと

受け止める

言い訳し無いで努力する

何があっても誰かを愛せる