芸術のその先へ

悩みでも何でもなくてただ平易なことを書くけど

やりたいことや夢はやらないことでしか実現しえない

やりたいことをやるには

喜びや幸せのような結果を捨て

続ける力を頼り続けることにある

こんなこと続けていいんだろうかとか思ったら次も同じだし切り替えるには気持ちしかなくて

意図して気持ちを切り替えるというよりかは切り替わるべくして切り替わっていくものだと思っている

芸術のその先へと書いたのは

文字に依存しない表現でしか人は感動を覚えられないからだということだ

文字を使って誰彼を感動させることは出来るかもしれないけど

論理と情熱の話の続き

http://sejies.blog.fc2.com/blog-entry-50.html?sp

 

論理とは

成功確率を上げるための、いわゆる"合理的"な判断だと思う

例えば(これは日本に限った話にした方がより現実味が増すので)とても頭が良くて、東大に入れるような人物が、東大に入ることなく工場でネジの点検を行う仕事に就いたとしたら、数年後にそれぞれの選択の差異がどれほどのものになるだろうか

ある社会学者からすれば"環境は人を縛る"のは事実であり、フィールドワーク(社会学者本人がホームレスになり、数ヶ月後に環境を変えることができるかどうかの実験。結果、貧乏を脱することが出来なかった)では明らかにそれが現れていた。

海外に絞って仕舞えばきっと才能を生かす様々な方法論が、特にアメリカにはあったであろうが、自分は日本に生まれ、日本に育ったので、その観点からこの論理というものを展開しているが

つまり論理とはこのように

時間軸において自分の最大能力をもってしてとるべき最も利益の大きな選択をとることである

東大に入れるが、才能の無い音楽に酔いしれて、音楽の道に進んだとすれば、それはその時点では情熱を選択したと言える

情熱の良いところは、それまでの結果を清算することができることだ

情熱には、新たな論理を生み出すことの出来る可能性が秘められている

人は情熱に駆られた行為を連続的に行うべきであるが、それは常に論理とのバランスを弁えた上で行われるべきでもある。

 

林を例にとってみる。

特に論理的に考える脳の無いまま無名の高校に入学し、15歳になってようやく論理の大事さに気付き、勉強するようになった。結果、動き出すのが遅かったものの、それにしては高い成果を出すことが出来ていたので、要領の悪いなりに上位校に入学した。大学は、本当なら情報系に行きたかった。今思えば、情報より理論物理や生物の方が自分には性に合っていたような気もするが、その時点では本来傾くべき情熱はそこにあった。しかし、前述の通り、あまりに論理が足りなかったので、就活に有利な有名大学に入るまでに終わってしまった。

ここで一つ考えられるお題は、

とりあえずネームバリューに肖って東大に入るのか(論理的正解)、やりたいことができる芸術系の学校に入学するのか(情熱的正解)、というのと同じである。

皆さんはどちらを選ぶだろう。ちなみに、論理と情熱のどちらを選ぶかは、日々この瞬間に変えることができるのでチャンスだ。

 

そして、林は論理的正解を選んだ。それはやはり、自分がなにより論理的正解の行く末を見ることが無かったからだ。

だからもし、僕が中学までずっと成績1番で、勉学や芸術の範囲なら、出来ることなんだってあるんであれば、この道を選ぶことはなかったであろう。でも、そのための努力もしなかった。

人によっては、僕と同じ環境下でも高校入学後に情熱を選択して、やや無謀と言わざるを得ない選択を行うことができる人もいるが。

まあただ、往々にして言えるのは

論理に従う人間には人間的な魅力が薄く

情熱に従う人間には人間的な魅力がある

ということだ

そして

論理に従った人間ほど失敗と偏りが少なく

情熱に従った人間ほど成功とバランスが無い

常に両者はアンビバレントな関係で

誰が何であろうと自分の好きに生きれば良いのである、という話だ

 

今自分は、論理に従って生きているがいつまでやりたいのかわからないし

明日辞めるのかもしれないし

でもそんな突飛な生き方をするような気もしない

そしてなにより、論理と情熱の選択は

最終的にその人にとって最も適切な量に落ち着く

自分でも、あれ、自分って意外と大胆なんだな、なんて思うこともあると思うが

それが適切なのである。

自分にとっては当たり前の選択であっても、他人から見て異常なのであれば、それは十分情熱に従った、と言っても良いだろう。

本当に優しい人間

とは

何か

思うところがあって

書いてみる

自分を知ろうと汗水垂らしていて

自己不全を理解して

でも自己肯定が出来て

愛し愛されようとして

そのために自己開示を不貞腐れず

目の前の現実、やらなきゃいけないこと

受け止める

言い訳し無いで努力する

何があっても誰かを愛せる

自己肯定感と不全

だから言ったろ!やっぱりそうだった。

自己肯定は根底が"自分の好きに生きればいいじゃ無い"

自己不全感は”自分の好きに生きていいんだろうか”

自己肯定からも不全感からも自己表現は可能である

ただし、自己表現時は必ず自己肯定感を孕ませなければならない

自己肯定感なき自己表現なんてそれはなんて生き地獄だ

どんなに格好よさそうに見せようと

生殺与奪結局自分の好きにやってるのだ

ドストエフスキーとか大森なんちゃらとか?、誰だか知ら無いし興味もないが

そうやって求心力を得ようとするオナニー作品には黙って巻き込まれるべきではない

自分を溺れさせる幸せがあるとすればそれは不幸だしただのアホ。オナニーのしすぎで公開処刑されたようなもの

そういうもんは、あくまで哀れみの対象物として鑑賞に値する程度であって

そこに生まれる芸術のしょうもなさに気づくようになって自己成長しさえすればいい

社会を拠り所にすることで自分のちっぽけな(持つべき必須要件の)自己肯定力を維持して、最低限の自己不全を持ち合わせているから、大企業に入らずにベンチャーで心を折らせて、自分と世の中に折り合いをつけさせた上で今仕事に集中しているんだってことを経験に基づいて気づくことができた。

 

でもそれはやっぱり過去に触れることでしか向き合え無かったし、それはそれは嫌な道のりだった。今も嫌だ。

 

自己肯定感は自己中心的瞬間だから自分以外の相手のことを認識し無い

”自分がよければそれで良い”瞬間

自分の場合はそんな態度や姿勢が嫌で、

12歳くらいか?もっと前から”自分がよければいい”が本当に正しいのか気持ち変わり

"自分より誰かに優しくして傷つけ無いほうが幸せだ"と思ったよ

周りは誰一人として、出来ていなかったと思うけど。そんなことを考えているようにも思えなかったし、自分だってそれを言葉にして説明することは今になってようやく少し、輪郭が掴めたくらいだ。

 

自分を愛し、誰かを愛するためには、

まず自分を誰よりも幸せにし無くちゃいけ無い、

そのためには己の限界を知るとか

たくさんの血を流し努力が必要であることも

どんな言い訳をして逃げ切ろうとも必ずある

人のことを幸せにでき無い人間に子供や家族を語る権利は無いよ

そしてそれができない出来損ないな人間をガキって呼ぶのさ

そういうことなら腑に落ちたよ。全て。わかった。全部受け入れられるさ

 

 

才能に溺れた皆に告ぐが

出来ることに酔ったり

嫌なこと、面倒ごとを見無いふりをするのは簡単だが

努力無き自己表現に未来はない

それに夢見るなんて本当に大した意味がないから

そんな暇があれば自分に出来ることに見切りをつけて

誰かを幸せにする努力をしたほうが

ブルーハーツのような心と歌を作れるんだよ

 

そんな、自分の幸せのためと、自分以外の誰かに幸せを与えるための

割と無駄な努力を俯瞰した日でした。

 

だから今日はguns n' rosesも気持ちよく聞けたんだね

 

好き

最近つくづく思う好きはなんぞやと

異性の好きと友人の好きは違うのかとか

ゲームが好きなのと美しいものが好きなのは違うのかとか

好きで片付けられている正体がいまいち、ふにおちていない

自分の好きなものって果たして本当に好きと言い切れるのか

それすらも、危ぶまれる事実のような気がして

やっぱりのところ、人として美しくありたいとかそういう着地になるんだろうか

人として美しいかどうかってどうやって決めるんだっけ

純粋さって子供らしさ

子供のような心を持った大人

子供らしさを損ねた大人になることが怖いから子供らしさに甘えるのか

なんかよくわからない

好きの正体はどこにあるんだろうか

心の繋がりにあるのだろうか

仕組みの中に存在するのだろうか

仕組みって、大脳だから、大脳は生まれて間もないものだから?

人としてあるべきに突っ走る方が美しいんだろうか

なんかそれもまた残酷で

自分には出来なさそうだ

仕事にはまるのもそういう

やりたいことやるだけの勇気とか持ち合わせてないから

好きなことに好きとのめり込むこともできないし

好きなようにやることの難しさ

特に悲しさとかないけれど

だからこそ

好きに生きた方が良くてのめり込む必要は無いはず

面倒ごとすっ飛ばして自分に

結論はやりたいことやってりゃあ好きになっていくしその腹落ちをしないんだろう

抜ける、辞める、避けるというよう

今を生きるのか普遍的に生きるのかの違い

苦しみについて綴る

珍しく意味のない行為を行う

苦しみには正体があり実体を伴わない苦しみは永遠に続く忘却の果てまで

つまり実体を掴むことこそが苦しみの除去であり実体なき苦しみは永遠なのよ

 

今を生きること

は嘘を許容すること

自分の理想や世界観を現実と擦り合わせて決める生き方

時間軸の変動を許さない

 

普遍的に生きること

は嘘を許容しないこと

自分の理想や世界観を時間を無視して貫くこと

生きとし生けるもののあるべき姿を追求する姿

できることならば普遍的に生きたいと思うが

そのためにはあまりにも多くを無視してしまうんじゃあないかと思った

し、そんな大層な違いのあることでも無いと思った時間は人の手によって可変し得ないものであるから

普遍的な生き方は失うものが大きければ得られるものも解釈によってのみ尊さが伴うものだ

 

どんな生き方にしろ目の前の真っ直ぐ見ることに普遍性はあり

その生き方は誰彼が決まるような話でもない自分が決めるものである

 

苦しみとは間接的に解消できないものであることを書いた

苦しみはマッサージやエステじゃ癒えない

真の苦しみは苦しみ切ったことでしか認められ得ない

 

林はいまとても苦しい、仕事が何も手がつかない程

死にたくて死にたくて

目の前の現実を投げ出したくなってしまう

23歳になった今でもね

自戒を込めて

議論が出来ないとだんだん軌道修正がきかなくなって自分はきっと正しいんだと偏った人間になりがちだ

だいたいパターンでいつものこれだ、何度目かという感じ

 

ついつい自分が正しいと思い込んでしまう

でも誰よりも自己否定感が強いのも確かで

もっと好きに生きる準備をしていかなくちゃな