生きた心地がしない感性を問う

23歳になりました

全くもってその言葉に対して違和感を拭えず

違和感の正体を探りました

まだわからないのですが輪郭としては、恐らく"自分で生きてる心地"がしないんです

 

なんか、

23歳になったよ!なんて言うとあたかもこの宇宙に授けられしわたくし23年目に突入しましたわおほほみたいな、個人としての主張・主体性を感じざるをえないですが

実際は宇宙に産み落とされてちょっと時間が経過したけど、存在理由がないと怖いだろうから23歳って括りをあげて安心させてあげよう

って神のお告げがあるから

そうやって思い込むことができてるんかなと思いました、そんな22〜23歳にかけての1年間。

 

宇多田ヒカルの新曲「道」の歌詞にもあったように

人は生きてるんじゃなく生かされてるんだなあと感じました

だから生きた心地がしないんだと思うんですわ

 

 

 だから全然嬉しくないんです

(お祝いされたら超嬉しいですけど)

この宇宙の主体は自分ではなくて神なんですね

"年をとったから寂しぃ"とかいう発言は幻で

夢でしかない(主体は自分ではないし、さらにいえば寂しいって感情も君のものではない。そう感じさせてもらってるだけ)ことなので

この宇宙の秒針1秒分にも満たない自分の存在が(ああこわい)死ぬのが怖いのになんでか生まれちまったなと思いながら

あっそういえばそういう日なんでしたっけ

って感じで迎えられた

(っていうかなに宇宙相手に戦おうとしてんの笑)

あとは多分去年は本当に心臓が止まるような人生だったので

生きながらえた感が普通にすごいあるんだと思います

くわら

まあでも人にできることって環境を変えることだけなので

年が変わりましたが変わらず気にせずたくさんの細胞の一部として精一杯正常な精神を保とうと頑張りたいと思います

まったく酒でも飲んでねーとやってらんねぇよ( *`ω´)

ってことで下戸ですが酒でもなんでも生活に必要なもの(食事とか睡眠とか食事とか)を分かち合う時間、絶賛募集中です。お声掛け頂けたらうれしいです。

 

余談ですが、星野源の作品"そして生活はつづく"の一節で

"全ての人に平等に課せられているものは 、いずれ訪れる 「死 」と 、それまで延々とつづく 「生活 」だけなのである 。"

とあって、自分で反省しています

去年は生活を蔑ろにしていたため、何もかもうまくいかなかった、今年はもっと生活を、楽しみたいと思います。

この文章を読んでくれるいろんな方の感性を受け止められることを23歳のhofuに.

変わらずよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

読まなくていいところ(暇な場合どうぞ
------------------------------
20歳を過ぎるまで、正確に言えば20歳を過ぎる頃誰かに教えてもらえるまで
その誰かは誰でもいいんじゃなくて特定の誰かであって欲しいのだけど。(p.s beatles乙)
感性が無かった
感性とは
感性ってなんですか
みなさんがお使いになられる言葉
尊敬
憧れ

希望
優秀
何をとってもわからない

どんな人が好き?→尊敬できる人かなぁ♪

答えになってないyo
尊敬ってなに?

一括りにされた感性を問う

話が逸れた。
感性ってなんすか
林は20歳を過ぎるまで、感性が無かった
嬉しいってなに
あー言わんとすることはわかるよ笑うやつでしょ

笑うってなに

誰がこれが笑うだって決めたの

笑いってなに
必要なの?(18歳までずっとこれ)
笑う必要がある人はなぜなのとか考えていた

誰かに嫌われることは無かったけど
誰からも愛されてないことも気づいた(p.s 家族)

愛ってなに
これはわかる
死ぬまで添い遂げることだ

林はイマイチド色々な人の感性を問う

面白いってなに
必要なの?
ああそうか、人って寂しいんだね
辛いんだなるほどね人って不思議だね(19歳で知ったはじめて人のために泣いた)

感性を問う
音楽ってなに
絵ってなに
スポーツならわかる
生きるために必要だもんね
マンモス殺すために音楽と絵は要らないもんね
なんでピアノ弾くの
なんで絵を描くの謎謎
理由もないのに描く必要無くない?
そんなに考えられるなら頑張れば評価されるはずなのにって大人たちは言うけど
必要のないことに頑張る理由無くない??????
愛は必要だ
セックスはそこまででもない
酒は要らない
恋は核爆弾
希望は必要だ
優秀である必要ってある?
ない
生きれるのなら頑張る必要は無い

全ての感性に理由がある


わかりやすくまとめます読んでくれた方ありがとうございます
20歳を過ぎるまで人の気持ちを考えるのがド下手でした。。
というのは、それまでも人ってなに考えてるんだろうってことは考えていたのですが
その当の人について深く関わることをしなかったので理解できませんでした
一番最初に教えてくれたのは20過ぎのある人でした
人と接することによって人の喜怒哀楽がどうやって生じるのかたくさん研究させてもらいました、いや研究ではなくて体験させて頂きました。だから、研究じゃないから僕も泣くし笑うし怒るしキレるしいろいろな感情を教えてもらいました。一つ一つの感性には理由があるんだなと知りました。なぜ泣くのかといえばその時の自分にキャパオーバーな出来事が起きているから。なぜ笑うか(楽しいか)といえば寂しいから。辛くなかったら楽しむ必要ありません。
なぜ怒るのかは人それぞれ、悲しむのも人それぞれ(違うんです面倒くさくて割愛してるだけです)

なぜそれまで感情の存在に気づかなかったかというと、必要が無かったからの一言に尽きます。
感情が無くても生活は出来る。盗んだり食べたり寝たりすれば。。
そんなことを考えながら実行しながら6〜15歳
敷かれたレールを完全無視した小中学校生活を通じて、高校生になってようやく勉強し出した
あ話が逸れた

 

 

kojireta yatsushika omoshiroku nai

人について調べるのが好きだ

毎日新しい情報になるべく選りすぐりながら触れるようにしている

気になって調べて頭に入れる情報

意味がないなと思いながらチャンネルを回すザッピング的なページスクロール

著名人がかき集めた面白い情報

 

ただ、いまいま自分へのフラストレーションがある

どういうフラストレーションかというと、自身の選択に対して納得がいかないこと

原因を探っても探ってもわかることがないので、雑念の堂々巡り

 

なんか最近気になっていたので星野源について調べた

好き嫌いは興味関心に基づいている

久しぶりに人で興味を持ったので、どんな人かと恐る恐る調べた

ある程度の経歴は知っていたけど

本人の口から出る言葉が一番実体験に近く、検討材料になる

例:星野源とバナナマン『SUN』と日村誕生日曲のつながりを語る

要約するとおそらく、目立つものは頑張ってるんだなって自省に至ったってことなんだが

 

やっぱり人って寂しいから何か認めて欲しくて行動を起こすし

愛が薄くて軽犯罪したり

愛がなくて人殺しちゃったり

ぽっかり空いた穴とカケラ的に足りないピースと

共感する穴の大きさの違いだとは思うけど

もっというと環境にどれだけ苦しめられたか、が人生の醍醐味であると言えそう

 

苦しんだことのない人生はやっぱり、違うよね

 

なので、いまいま振り返ってみると

中学生の頃からあんまり自分の好き勝手に動けなくなった〜って話も

高校生の頃にバンドマンが皆大嫌いでぶっ殺してやりたい気持ちでいたことも

ある程度苦しむ必要がなかったからなんだなと思って

まだまだ余裕がある人生なんだなと考えた。思いもよらない行動を起こすか、環境を帰ることしかできないから、もっとドラスティックに、それこそが実は、まっすぐに目を背けずぶつかり続けることのできる前提に立った場合の最善策なのではないかなと思ったのでした。

でも、体を壊してうつ病になったり、余計なことに自分でイライラを作ったり

無駄な作業は減らしていかないといけないなとも思うのです

繊細さは図太さと相反して行動力にも相反していく

ケースバイケースで使い分けられるようになりたいね

 

残念なことに四字熟語は存在していないけど

美輪さんとかが言う、プラスマイナスの法則は応用が利くなと改めて思ったのであった

 

あっメモ書きです

 

 

追記

あと何より自分以外のものに目を向けることに重きを置いていかなきゃならん

人を感動させたい気持ちとか

自分じゃない何かを理解しようとする力を。課題です

 

 

""「掃除とか選択とかそういう毎日の地味な生活を大事にしないでしょあんた。だからそういうことになるの」""

繊細な言葉が自分を表現する

暇つぶし

 

 繊細な言葉で自分を表現する

I express myself by (using) delicate words

→自分が主体で言葉を操る

 

繊細な言葉が自分を表現する

Delicate words express me (myself).

→言葉が主体で自分を象る

 

繊細な言葉に自分が表現される

I'll be expressed by delicate words.

→自分は繊細ですの言い換え、一歩間違えると自己顕示欲

 

繊細な言葉を自分の表現に使う

I use delicate words to express myself.

→文章の一節、繋ぎの言葉

現役最強

20歳になった時にこう感じたのを覚えてる

 

「あ、もう戻れなくなったな

自分の進みたい方向に

自分が選ぶべき方向を捨ててこっちを選んだな」

いつだったか覚えてないけど、昔住んでた光が丘の駅から家に向かって帰っている時に確かにそう考えたことをよく覚えてる

そうやって変なことだけ記憶してるのはあんまり喜ばしくもないんだけど

体が何を感じてるかを知覚することだけは随分と長けていて

体がその時にそっちを選んでしまったねという感覚をよく覚えているという話である

そこから先は余計な体力を使わずにいかに残されたリソースを削っていくかの戦い

摩耗の戦い

あれがやりたいこれがやりたいの戦いは消え

こうしてみたいのだなんて熱意を持つこともなく…あれがやりたい"けど"で始まるやめる方法の模索。そうそれ環境依存

 

うんたしかに、19歳までは結構ガムシャラに、それなりに頑張っている部分もあった。妥協している部分もあったけどね。

自分から学ぼうとすれば学べることもたくさんあった。学びたくないなと思った瞬間にすべてが止まった。

これは、、、うんまあ環境のせい。

もっと能動的に、生き生きと、ヴィヴィッドに、鮮明に

今日が現役最強だと思えるように…

何と戦ってるんだろうか

1年は長い

1年は長い

ある1年に考えていたことと

違う1年に考えていたことは

大幅に異なっているようで芯が通っているようで

大流の渦に逆らえない個人と

大流を俯瞰する脳のambivalentにいる

感じ

 

たとえば、

大流の渦潮を飲み込んで、塩っぱい思いをする日もあれば

大流の渦の中でもゆるやかな時があって、そんな日は太陽も気持ち良く光ってて

自分の体を照らしてくれて、生きていることを実感させてくれたりする

 

言おうとしてんのはつまり(抽象的だけど)

人は逆らえない渦にのまれつつも

その中で楽しんだり苦しんだりして死ぬのを待ってる気がする

渦に入った時が生まれた瞬間であってね

 

そんな感覚を元に振り返ると

去年の今頃と今の自分に何か変わったところがあるかといわれたら

(変わりたいと思ってるのか?→今の自分の生き方に納得してないってことかな)

さっぱりわからぬ

 

 

 

 

----------

小学生みたいな生き方を繰り返し続けてもなお

社会となんとかやってける(のか?)人を見ていて

大人との違いをまざまざと感じた

 

----------

次の苦しさ、次の苦しさ、順を追って次に何があるのやらさっぱりわからないけど

一つ目の前の事実としてわかっていることはまだ社会をコンプリートしたと確信・実感できていないということ

その線引きは人それぞれで、僕はそんなに高くないはずで

30歳までには全てやり終えていたいと思う。できれば。。

急いで25歳までに社会に飽きて、26歳からは自分の好きなことだけをやっていきたいと思う。

ずるい生き方

 

----------

ちなみに心の底では面白おかしくふざけて生きることしか興味ない

つまらない生きたふりをしたモノに面白がって反応するふりもこの1年でとても上手になった

何かが絶対だとは言えなくなってきた

結構正解みたいなものがあると思って生きてきたし数学の問題とか見てるといつか溶けるんじゃないかって気がするのでそのうち絶対的な何かが見えるんではとか思ったりもするんですがやはりないんじゃないかと思うんです

大企業に行ったほうがいいとか

LGBTを隠したほうがいいとか

そもそもそれは人に言われて決める物事ではない(林はノーマル)ので

いつまでも正解を知ろうとするのって本当に手遅れというか

そんなことしてる暇があったら今自分がやっていることに心血を注げよ!!

とキレる

今この瞬間に心血も注げないのに将来どうなるかなんて考えんなよ

とか言ってやりたい自分へこみ上げる怒りと憤慨と正直悲哀とが入り混じって

いつも通りの虚無感に着地していくんだ

人はこれを配合というらしい

なぜ文字を連ねるのかということ

文字を連ねることは、こうやってブログに思いを書くこともそうだし、紙でできた日記帳にボールペンやシャーペンや、鉛筆やらで書いては消して、気に入った文章を作り上げようとすることだと思っているけれど。なんでそんなことをするのか文字にしたことはなかった。人に話すことは多々あるけど。

そういえば私は、文字には人知れぬこだわりがある。言葉は言の端なんて言われたりもするように、文字には何かを伝えたいという情熱の媒介者のような香りがするのである。

なので多分、ここで大事にすべきこととしては、何を伝えたいのか、どのように伝えたいのかの二種類に分類されるんだと思う、それが多分コミュニケーションといわれるもの。

念のため理論武装しておくと、相手にどう伝えたらいいか、みたいな相手の気持ちを汲み取って言葉を選ぶことは、それはそれで大事ではあるけれど、上の二つがないと成り立たない高次元な工夫なので、根本的に重要ではないと思うのである。

本来人が、文字を連ねるにあたり、本当に注力すべきものというのは、自分の中にどんな思いがあるかに集約されるはず。

では、題目に書いた、なぜ文字を連ねるのかということだけど、なんで伝えたいことがあるのかとか、わざわざこうして電子媒体に指を上下左右に揺らしながら頭を使っているのかとか、その源泉みたいなものはどこに、なんであるんだろうか、というのが今日の本題である。

つまるところ、デザインとアートの違いみたいなものかと思っていて、デザインはコミュニケーションの向上が目的だけど、アートは個々人の寂しさを払拭するために行われる行為だからだ。

アートのくだりは、東京藝術大学のHPのどこかに、なんかの学長が偉そげにそんなことを書いていたような気がする。

僕個人としてもその考え方は芯を食っている気がして、結局学校で教えられる文法とか、1スライド1メッセージとかっていうのは、デザイン的な発想でしかなくて、本来の目的は何かを伝えたい、その情熱の置き所だと思うのだ。

だから僕は、いいたいことを丁寧に伝えようとか、まったく考えない。たしかにそれって努力によって培うべき項目なのかもしれないけれど、大学に入学したあたりから完全にやる気が失せた。

目的意識が微塵も持てなかったから。

それよりも、どうしてもこれを伝えたいのだ、とか、誰かにわかって欲しいのだ、といった心の叫びを作っていくことの方が、断然大切なことのように思ったから。

なのでこうして文字を連ねるというのは、ある種僕の目的を果たしているのだ。

今この瞬間に生きることと、自分の審美眼を信じて目の前の事実、瞬間瞬間に現れる物事を適切に見続けて、それがどんなに苦々しいことであろうと死ぬまでやり続けて、不満は不満であると、伝えることが文字を連ねるということだと思うのだ。

なぜ不満なのかって?世の中は自分の思い通りにいかないからさ。君1人にできることは今現在73億分の1の力まで落ちているよ。宝くじより思い通りにいかないだろうね。なんでそんなことに期待をする?

それよりは、不満を不満として、丁寧に綴った方が、人それぞれが感じざるを得ないはずの、生まれ持った寂しさみたいなものを、万全と表現できるものだとは思いませんか。